「今日ご自宅に帰られたら、今日ここで決意したことを一つでも、小さなことでもいいから、実践してください」
新道るいの視線は正面の受講生達に向けられていたけれど、意識はどうしてもある1人の受講生のところに吸い寄せられてしまう。
申し込みを受けた段階で、49歳という年齢が気になってはいた。今年新しく入ったアシスタントの市川沙蘭(イチカワサラン)が、
「受講内容わかってるんですかねぇ」
とあけすけな感想を述べていたけれど、新道るいも同調する部分はあった。
新道るいの片付けに関する講座は、おかげさまで大抵満席になり、時にはキャンセル待ちになることもある。そのほとんどが、片付けの苦手な未婚女性(結婚願望のある)を対象にしているので、受講者の年齢も2〜30代が最も多い。
時には主婦層をターゲットにした講座も開催するけれど、既婚者はどちらかと言えば自宅に来て片付けてほしいという要望が多いので圧倒的に数は少なくなる。
今回も「心も部屋もスッキリ片付けて、新しい恋を呼び込もう」というワンデイレッスンだったので、49歳の蒲谷とし美(カマタニトシミ)は申し訳ないほど浮いていた。彼女にはある種の落ち着きがあり、1人だけ保護者のようなオーラを放っていたからだ。
冷やかしかと最初は意識を向けていたけれど、本人は周囲に負けないほどに熱心にメモを取って講義に聞き入っている。本気でこのレッスンを受けたかったのだろう。
講義後、著作本を購入してくれた人にはサインをし、軽く言葉を交わすことになっているのだけれど、ひときわ真剣な眼差しで蒲谷とし美はその列に並んできた。
「あの、新道るいさん。ご相談があります」
新道るいは身を硬くした。傍に立っていた会場担当者が「他の方もいらっしゃいますので、手短にお願いします」と注釈を挟んでいるにも関わらず、
「あの、片付けって度が過ぎると、何かしら、病気と言いますか、そういうことになりますか」
と身を乗り出してきた。間に割って入ろうとした担当者に軽く合図をし、
「あの・・・話が長くなりそうなら、ちょっと待っててもらえますか」
と思わず答えてしまったのも、あまりにも彼女が切羽詰まっているように見えたからだろう。新道るいは彼女の発した「片付けの度が過ぎる」という言葉にも引っかかりを感じていた。何か問題を抱えているのだろうか。
一通り受講生を送り出した後、ロビーを借りて蒲谷とし美と向かい合った。こういったレッスンに通い慣れていないのだろう、気軽な講義なのにまるで授業参観のような地味で平凡な形のスーツを着ていた。
「あの、さっきのは息子のことなんです。新道さんのこと、たまたま雑誌で知りまして、講座があるってことだったのでもういてもたってもいられなくて」
一息に話して、ほおっと息をつく。
「息子は、あの、今一人暮らししてます。27歳になるから、もう9年になります。そのアパートにはそんなにしょっちゅう行くことはないんですけれども・・・」
蒲谷とし美は、そろそろ自分も残りの人生を考えねばと思っていた。教師である夫には何不自由のない生活を送らせてもらっていたし、趣味のレース編みとパッチワークでも友達が出来、女だけで旅行にも行かせてもらっている。家事など何もしない夫なので、朝夕のおかずとご飯をタッパに入れ、ちゃんとメモ書きで何をどんな風にして食べれば美味しいのか注釈をつけねばならなかったけれど、そんなものは苦ではない。旅行仲間には「二千円ぐらい置いとけば、勝手に食べるのよ」と言い放つツワモノもいたけれど、そんなことはとし美自身がしたくなかった。
息子の連(レン)は大学を卒業後何とか就職してくれたし、夫は自分を追って教師にならなかったことが少し不満だったようだけれど、若い教師の境遇を見ると自分の時代とは違うとつくづく感じるようなので、そううるさくは言わなかった。
大学入学時に一人暮らしを始めた頃から、連には時々、手軽に食べられるラーメンや温めるだけのご飯、カップ麺やカステラなどを送っていた。ただ、ここ数ヶ月「もういらないから」と言ってくることが多くなり、ただの遠慮かと思えば「本当にいらないの。もう送らないで」と怒られることもあった。
「ガス台も捨てたし、家でご飯食べないから」
「え、壊れたの?電気ポット送ろうか」
「やめてよ、せっかく捨てたのに」
ため息交じりの息子の声がなぜか遠くに聞こえる。これは本当に息子だろうか。その頃からとし美は漠然とした不安に駆られるようになった。
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