そもそも、多文化共生が人類にとって良いと誰が決めたのか?
それが困難だからこそ、民族、宗教、文化の違いによって住む場所を別にし、衝突や争いをできる限り避けるよう生きてきたのではなかろうか?
その点を、民族学、宗教学、歴史学などの観点から考察し、多文化共生の強制が良いことなのか、そもそも、人類に実現可能な現実的なことなのかの結論を待つ必要があるのでは?
その際、「多文化共生ありき」ではダメ!
誰にとっても幸福であるためには、まっさらな状態から考察し、結論を出すべきだ。
少なくとも、今現在、「多文化共生が最善!」であるとする明確な根拠は無い!
根拠は一部の人たちの妄想だけ。
日本の学校給食でイスラム教の教えに則ったハラルの給食をイスラム教徒でもない日本の子供に食べさせる行いは、イスラム教に則った宗教活動の強制にならないのか?
これを「多文化共生の一環」とするならば、イスラム教徒に日本のとんかつを食べてもらうことも「多文化共生の一環」なのでは?
でも、できないだろうし、応じないだろう。
この時点で、「多文化共生」には無理があるということだ。
それとも、学校給食に毎度毎度ハラル食と日本人向けの食事、ビーガン向けの食事などなどを提供しますか?
効率が悪く、給食費は高騰するでしょうね。
社会的にも非効率で負担が増えるばかりだ。
宗教、生活様式、価値観、倫理観の合う者同士が集まって暮らす方が効率も良く、社会的な負担も精神的な負担も少なく、健やかな生活を実現できるのではなかろうか?
果たして、「多文化共生」の強制にどれほどのメリットがあるのか?
「多文化共生」の必要はなく、他の文化を知り、理解し、尊重するだけで十分だと考える!
実際はそれすら出来ていないのが人類の現状。
実際にハラルの食事をイスラム教徒ではない日本の子供に食べさせれば、それは宗教活動の強要となり、日本国憲法違反にもなる。
なので、日本の子供にイスラム教徒のハラル食とは何か、どのような意味があるのかを教えるだけでいい。
実際に食べさせることは、イスラム教徒にとんかつを食べさせること、奈良の大仏に手を合わせて拝ませることに等しい。
イスラム教徒の人は「多文化共生の一環だから」と応じてくれるのでしょうか?
お互いにお互いの民族の違い、宗教の違い、文化・歴史の違いを知り、理解することで、「多文化共生」が本当に実現可能なのかを感じ取れるはずだ。
「多文化共生」が正しいといつ、誰が、どこで、何を根拠に決めたのか定かではないのに、「多文化共生」ありきで強制させることに問題がある。
なので、民族学的、宗教学的、歴史学的に多文化共生は人類にとって実現可能なのか、実現すべきことなのかを問いたいし、逆に、これまでなぜ、民族、宗教、文化の違いによってまとまり、お互いに程よい距離を保って人類は生きてきたのか?についても問いたい。
【追記】
産経新聞 「『希望する弔い方を』宮城の村井嘉浩知事、土葬墓地の意義改めて強調 知事選公約にはせず」
村井知事は「県としては、特定の宗教や国籍の方に限らず、全ての方が最期まで安心して暮らせる環境整備として、それぞれが希望する弔い方を選択できるよう検討している」
日本人が外国で最期を迎えた時、日本人が望むような弔い方を認めてくれるのだろうか?
日本国だけが諸外国の希望に合わせ、日本国民が与えるるばかりでは、やがて日本国民は疲弊する。
今だけを考えている政治家もどきは政治家ではない!
30年後の日本を語れない、30年後の日本に責任を持てない者は政治家になる資格は無い!