国会も始まり、兵庫の知事選、名古屋の市長選、私の住む栃木の知事選と宇都宮の市長選(小声)…といろいろ忙しいシーズンがやってきました。特に、先の衆院選、兵庫と、不祥事が大きな争点となっておりますなぁというのが印象ですね。このタイミングでこの記事を書くことに意味はないです。多分。
不祥事が争点となる選挙では、国民の反応が二分される、というのは二つの選挙戦を見れば明らかでしょう。一方では、不祥事を糾弾する「正義」の鉄槌に賛同する人々がいます。彼らは、政治家の責任を追及し、人によってはかなりの攻撃的な言葉、罵詈雑言のような言葉を使う“パフォーマンス”を行う人も散見されます。語気を強めて物言う姿は正義の味方かのようにも映るでしょうし、実際そのパフォーマンスは一定の成果を得られるのでしょう。でなきゃやらないでしょうし。
一方、冷静に自分たちの生活を良くしてくれる人を選ぼうとするリアリストがいるというのも事実でしょう。彼らは、感情的な反応よりも、実利を大切に、政治家を最もしっかり見ていると云ってもいいかもしれません。選挙の際には、候補者の政策や実績を重視し、どのように自分たちの生活が改善されるのかを考え、投票に行く。こうした人々が増えていそうということは第三極政党が支持を集めた最近の選挙を見れば容易に想像がつきますし、この傾向も続いていくことでしょう。
このような人たちは、欧州の選挙に於ける、ポピュリズムの台頭とも共通するものがあるでしょう。多くの国で、伝統的な政党に代わり、新しい政治勢力が台頭しています。一国民として生活の質を上げられると期待して、「極右」——反移民、ナショナリズム、...——に投票するわけです。
「正義」の鉄槌を振りかざす人とそれを冷ややかに見つめるリアリスト、結局はどちらがいいかという感情によって各人が決めることではあります。何としてでも懲罰しなければならない、というときもあるでしょうし、パフォーマンスばっかの奴らには任せられない、というときもあるでしょう。人それぞれ物事の見方の尺度も異なる以上、どちらが正しく、どちらが間違いとも言えません。
重要なことは、民主主義では国民の選択は常に正解であるということです。即ち、どんな選択をしても、それが国民の意思であるのだから、尊重されるべきだ、ということです。有権者を侮辱するなど以ての外ですし、仮にも自分が推していた候補が敗れたなら、それは対立候補に票が集まることを阻止できなかったという自分たちの責任であることに他ならないでしょう。