こんにちは。
昨年12月19日に完成した宮城県女川町の出島(いずしま)に大橋が出来たことで、先週の水曜日に塩竈市と仙台市の有志十二人で、東日本大震災で亡くなられ方のご供養に行って参りました。
※震災を思い出されてお辛いかたは、スルーされてくださいね。
少し長くなります。
実は、震災時、某企業の四階建ての社宅に住んでいた姪家族が、被災しました。
道路から23メートルの高台に建てられていた女川町立病院に逃げたのですが、その時、たまたま塩釜の姪の実家に車で行く途中、大きな地震が起きたのです。
まだ家を出たばかりでしたが、道路で前を走っている軽トラックが、病院の高台に、もの凄いスピードで坂を登ったので、姪も無我夢中で車を追いかけました💦
病院の坂途中から車を捨てて、一才の息子をオムツの荷物などを持ちながら、片手で抱えて、病院の二階の階段を登りきった所、一階の天井迄津波がすぐ押し寄せたとのこと💦
その時に病院の窓から姪が乗っていた23メートルの坂に置いた車が津波で流されているのが💦
目の前の風景を見て震えが止まら無かったそうです。
新しかった四階の社宅の屋上も飲み込んだ津波、転勤後、一階に住んでいた頃、私も一度訪れたことがありました。
その建物の屋上を船が走るように奥地に押し寄せたそうです。
そこで逃げ遅れたご家族もいらっしゃいました。
仲良くされてた子供さんやご家族のことを思うと辛かったようです😰
連絡がなかなか通じなかった時に、妹は保育園の職場の誰もいない所で、生存していてくれることを、泣きながら必死に祈っていたそうです🙏
携帯電話も通じなかった時に、たまたま私の東京にいた下の弟が、姪の旦那さんが、テレビの報道でインタビューを受けていたのを偶然にツイッターで見て、姪の弟に連絡を入れて親の妹にメールで知らされて生存が分かりました😥
別のもっと高台にあった社宅に姪が避難した時も、私の妹や実家の弟が捜しに行って、塩竈に帰るように促しても被災した姪のそのショックと悲しみで、自分ばかり助かったのが、辛く、その避難した社宅で、「行方不明のご家族を捜して、灯りも無く、泥だらけになって夜帰られる社員さんたちのご飯の炊き出しを手伝うからしばらく女川にいる」と言って帰らなかったのです。
その後、転勤が青森などありましたが、今は、仙台に住んでいます。
あのときの、一才の息子も高校生になりました。
産まれた時は仙台でしたが、仙台の社宅で赤ちゃんの時に何度か私も子守りに行って、可愛がっていたので、とてもその当時は、辛いものでした。
震災後、女川の町自体が、6メートル越えの嵩上げをされました。
それで女川町立病院も道路から低く見えるようになりました。
街もモダンな作りになりましたが、昔の女川町の風景が、懐かしく忘れられないです。
以前、何度かご供養に参りましたが、今回は、女川の出島でご供養をさせて頂きました。
実は、私が高校二年生の時に、仙台から訪れ、海が見える公民館で合宿があった島なので、思い出がある島です。
一度は、手を合わたく思っておりました🙏
出島は橋が出来る前は、本土から漁船でしか渡ることが出来ませんでした。
長年の島民の悲願だった大橋が完成したのです。
大きな魚が釣れたようです。










