昔から憧れていたとある人の本の校正を、数年ほど手伝ってきた。


始まりは、いたって気軽なものだった。


講演会の原稿を書き上げて、関係者に確認と校正を求めてファイルを送ったが、誰からも返事や指摘がない。よかったら中身を見てもらえないかというメールだった。


とにかく、全部をよく見てほしい。遠慮なく指摘してほしいと言われて、おそるおそる原稿に赤入れをしたのが始まりだ。


ある分野では有名な人である。


だから、「あの人の原稿を任されている」という他の人より特別な立場にあることに浮かれた。


また、主に地域の歴史などを発信するこの人のため、ひいては地域のために少しでも役立てればという思いもあった。


何か見返りを求めていたわけではない。少しでもよい本をつくる手助けができれば、それでよかったのだ。


「さすがだ!」
「君は秘書だ!」
「私の助手だ!」
「君が弟子だ!」



そう言われることが最初は素直に嬉しかった。誇らしかった。自分は特別なんだと思った。その人に信頼され、役に立てているように感じた。だから、どんどん、だんだん自分から進んで関わっていた。


しかし、原稿の枚数が増え、その人が引き受けた講演会のパワーポイント資料を見るなど、次から次へと、その人が引き受ける仕事が増えるほど、校正の作業は少しずつ重くなっていった。


自分がしていたのは、誤字脱字を直すだけの校正ではなかった。文章全体を修正し、全体の構成を整理し、本文と図面を照合し、地名や座標を確認する。図面の内容と本文の記述が合っているか、現地の地形と説明に食い違いがないかも確かめ、必要があれば現地に足を運んだ。

読者がその本を片手に城を訪れたとき、迷ったり戸惑ったりしないようにしたかった。だから、一つの原稿を何度も何度も読み返し、文章のつながりに無理がないか、説明が不足していないか、図面と本文の内容がきちんと対応しているか。そうした細かな点まで確認する必要があった。


しかも、その校正に関わる作業は、それまではその人のご家族が担っていたものであった。引き受けるにあたり、ご家族に対しても恥ずかしくないものにしなければならないと思った。

これは、任された以上、中途半端なことはできない。そう考えて、一枚一枚の原稿に向き合ってきた。


簡単な作業ではなかった。時間も手間もかかったが、自分がやめれば、十分に確認されないまま本が世に出てしまうかもしれないとまで思っていた。


今となってはそんなことは放っておけばよかったのだ。ひどい文章で大恥をかくのは本人だからだ。


けれども、負担を感じながらも、なかなか手を引くことができなかった。


その人は、自分一人では自分の文章の不自然さに気づきにくいと、たびたび話していた。

今となって思えば、まるで意味のわからない文章だらけの原稿の校正をこちらに押し付ける言い訳のつもりだったんだろう。

ここでいう「不自然さ」とは、専門的な知識がなければ分からない内容のことではない。日本語として不自然な表現になっていないか、文章の流れに無理がないか、説明の仕方に問題がないかという、文章そのものの確認である。

それを第三者に読んでもらう必要があることや、私の指摘が的確で助かっていることも話していた。


校正した原稿を提出するたびに、「君はなんて素晴らしいんだ!」「君が見てくれなければできあがらなかっただろう!」などと幾度となく、恥ずかしくなるような感謝の言葉を言われた。


そう言われると、自分の作業が本当に役に立っているのだと思い、次もきちんと仕上げなければならないと感じた。


弟子、助手、秘書…そうした呼び方によって、相手を中心とした関係のなかに置かれていった。


憧れていた有名人に、「君がいてくれてよかった」「君に任せれば大丈夫だ」と言われて、なかなか簡単には断れなかった。上下関係と相手の言葉によって、私は次第に断りにくい立場に置かれていたのだと思う。自分の責任感とその人への敬意を都合よく利用されたのかもしれない。



こうして、無償の作業は泥沼にハマっていった。



「最終責任は俺にある」と言っていた。しかし、原稿を形にするための細かな確認や修正にかかる時間と労力は、こちらに大きく偏っていた。


せめて、何か問題が起きたときには、責任を負う立場の人として、事実を確認し、必要な説明をするものだと思っていた。


しかし、校正を仕上げ、無事に世に出されたある報告書に掲載された縄張図をめぐって、問題が起きた。私は、納得がいかず、その点について指摘した。

ところが相手は、問題そのものには答えず、「品質保証の問題だ」などと、よく分からない話を持ち出した。 



そして、結局はうやむやにした。




「最終責任は俺にある」と言っていた人が、いざ問題を指摘されると、正面からは向き合おうとせず、口先だけでやり過ごそうとしている様子を見るうちに、私は強い違和感を覚えた。


とてもがっかりした。

こんな程度の人だったんだな。


幻滅した。


もう、その頃には、校正作業そのものにもすっかり疲れていた。長く続けてきた校正だが、いつの間にかやって当然のものとして扱われていることにも、うんざりしていた。


同じ頃から、何より自分が大切に扱ってきたその人の原稿や本について、書いた当人が「しょせんインチキだ」「こんなものはアテにならない」「どうせ道楽だ」と言ってくるようになったことが大きかった。


自分はこれまで、本文を読み、図面を確認し、必要なことを調べ、現地にまで足を運んできた。

完璧な本をつくろうとしていたわけではない。ただ、自分にできる範囲で、読者が城歩きを楽しめる本にしたかっただけだ。


だから、「インチキだ」「アテにならない」「道楽だ」というその言葉は、自分のこれまでの作業だけでなく、そこに費やしてきた時間や手間、そして真剣に向き合ってきた気持ちまで軽く扱い、見事に踏みにじるものだった。


こちらの気持ちなどお構いなしに、また新たな本の出版に参加するにあたり、原稿を見てほしいと頼まれた。

そこで、校正や編集が必要であれば、きちんと条件を決めた仕事として依頼してほしいと伝えた。これまでのように無償で作業を続けることはできないが、仕事としてなら責任を持って引き受ける。そういう形にしてほしい、と話した。


相手は「ほーっ」と声を漏らしただけで、あとはただ笑っていた。負担が大きすぎてつらいという話にも、仕事としてなら引き受けるという提案にも、特に聞く気がないようだった。

せめて、「これまでよくやってくれた」といった労いの言葉が一つでもあれば、受け止め方は違ったかもしれない。

しかし、相手からそうした言葉が出ることは遂に最後までなかった。



代わりに、君のことはみんなが認めているというわけのわからないメールが来た。

いや、周りに認められたいとかそういう話ではないんだが。


もはやこの人には何を言っても無駄だと思った。


作者がインチキだとへらへら笑いながら話す原稿のため、本のために、なぜこちらが無償で時間や労力を捧げなければならないのか。

真摯に取り組んできたが、この言われようでは、あまりにもばかばかしいではないか。


心底、そう思った。


ついに目が覚めた。


もっと早く、都合よくいいように利用されていることに気づいて距離を置けばよかったと思う。



仕事としてならいくらでもやります…?


もう2度と関わりません。