■間違いないから おやりなさい
五井昌久
(『大決意』所収)
※仮名遣いは原文に従っています。(22/1)
(一)
人間は神の分霊(わけみたま)であり
神そのものであるのです
昔 常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という人がいました
すべての人にむかって
あなたは仏さまです 菩薩さまです
と拝んで歩きました(22/2)
すると拝まれた人たちが
何 オレが仏菩薩であるものか!
と怒って 石をぶつけたり 棒で打ったりした
石をぶつけられ 棒でなぐられ 逃げながらも
あなたは仏さまです
あなたは菩薩さまです
と本当の人間の姿を拝んだということです(22/3)
お釈迦様の前生(ぜんしょう)だということになっています
ほんとうはこのように
人間を神さま! と拝めるようにならなければいけない(22/4)
ところがそんな奴を神さまと拝めるか というのが多い
顔をまともに見ては 神さまと思えない
それは相手の消えてゆく姿の部分を見ているんです
それを見ていてはいつまでたっても神さまには見えない(22/5)
そこで私はどうさせるかというと
人間を見る場合
その人の肉体を見ない
肉体のうしろにいる守護霊さん守護神さんを見させる(22/6)
息子が不良でしようがない とすれば
息子のうしろの守護霊さんに
“守護霊さん有難うございます
息子の天命をまっとうせしめ給え” とやる(22/7)
夫が道楽者だとすれば
“夫の守護霊さん ああご苦労さまですね
こういう業の固まりをよく守って下さいまして
有難うございます
どうか夫の天命をまっとうせしめ給え” とやるんです(22/8)
そうすると 知らないうちに
相手の守護霊と自分の守護霊と一つになり
守護霊の力が 夫なり子供なりに働いて
業を消してゆくのです
夫が祈らず
子が祈らず
妻が祈らないとするならば
自分だけでいいから
世界平和の祈りをするんです(22/9)
その時に
迷っている夫
迷っている子供の名を呼んで
そのうしろの守護霊さんに頼むのです
それをつづけることです
そうしますと いつの間にか立派になります
必ず立派になりますよ(22/10)
私のやり方は易行道(いぎょうどう)なんです
むずかしいっていう人があるけれど
むずかしいといえば何だってむずかしい
人間悟ろうとするのはなかなかむずかしいです
むずかしいけれど私のやり方は一番やさしいんです(22/11)
何故かというと
悩みをとってから拝め というのではない
悲しみをとってから拝め というのではない
汚れを清めてから拝め というのではないのです(22/12)
汚れたままでいいんだ
悩んでいるままでいいんだ
そのままで世界平和の祈りの中に飛びこめば
世界平和の大光明がそんなもの問題にしなくて
消してくれるのだ
そう信じておやりなさい と教えているのです(22/13)
神の子の人間なのだから
神さまが絶対に救わなきゃいけない
全部救うために
守護霊を遣(つか)わし 守護神を遣わしているんだから
救うのは当り前
救われるのは当り前なんです
ただ、消えてゆく姿ということが本当にわかれば
みんな救われちゃうのです(22/14)
(二)
“世界平和祈る忽ち祈り人(のりびと)の姿光につつまれてあり”
という私の歌があります(22/15)
どんなに悪いことを想っていても
自分がどんな業想念につつまれていても
あいつ嫌いな奴だ 死んでしまえばいい と思っていても
世界人類が平和でありますように といったらば
自分は光につつまれているのか
という質問がありました(22/16)
どんなに悪い想いが片方に出て来ても
世界人類が平和でありますように
という想いがあれば
それは光につつまれているのです(22/17)
光につつまれているけれども
自分の中の光と
外の守護霊守護神の光 救世の大光明と
ぴたっと一つにならないと安心しないのです
やっぱり揺れているような気がするのです(22/18)
ところが
世界平和の祈りをやっていると
中のものが世界平和をやるんだから
外の救世の大光明と合体してゆくわけ
合体してゆくうちに
だんだん光がひろがってゆく とともに
業想念がだんだんへってゆくのです(22/19)
へってゆけば
なんか安心立命した
心から ああ私は救われているんだなァ
ということが
貧乏なら貧乏なりに 病気なら病気の中で
ああ私は神の子なんだな
ということがハッキリわかってくるのです(22/20)
だからやらなければだめです
どんな悩みの中にあっても
どんないやな想いの中にあっても
貧乏の中にあっても
病気の中にあっても(22/21)
世界平和の祈りをしていれば
その人の問題はズーッと光につつまれているのです
これは間違いもないことです
だから安心して世界平和の祈りをやればいいのです(22/22)