おはようございます。連日「いじめ」に関する報道が後を絶ちません。

福岡県筑前町立三輪中2年の男子生徒(13)が自殺した問題を受け、いじめが原因で自殺した子どもの保護者らが29日、男子生徒の自宅で「いじめ被害者の会」の設立総会を開いた。
 九州や神奈川県などの5家族7人が参加。発起人で代表を務める大分県佐伯市の大沢秀明さん(62)は「いじめの存在を隠そうとする学校の体質は変わっていない」と指摘し、「学校がいじめの早期発見や適切な対応に取り組むように、国や県に働きかけていきたい」と強調した。
 大沢さんは1996年、福岡県城島町(現久留米市)で、中学3年の四男(当時15歳)を亡くしている。
 94年に中学2年の長男(当時14歳)を亡くした神奈川県相模原市の平野信矢さん(57)は「子どもへのいじめで悩む保護者に必要なのは、周囲の支え。自分の経験を生かして、苦しむ人たちの相談に応じたい」と話した。

 被害者だけではなく、加害者やその家族にとっても、辛く厳しい現実から逃れることはできません。人は人の支えなしでは生きていけない生き物ですから・・・。

No.419:差別

差別:①ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。 ②偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。

 ベストセラー小説「手紙」が映画化 され11月3日から公開されます。その新聞広告に、原作者である東野圭吾氏の「手紙」が掲載されました。


東野 圭吾
手紙

 毎日のように凶悪な犯罪が起きる。それらの報道を見聞きするたびに我々は驚き、憤るわけだが、しばらくするとそんな事件のことも忘れてしまう。仮に覚えていたとしても、犯人が捕まれば、ああよかったなと自分の中でピリオドを打ってしまう。大抵の人間にとって「事件」とはそういうものだ。

 事件はまだ終わっていないのだと認識するのは、そうした事件の裁判に関する情報に触れた時だ。とうの昔に決着していたはずなのに、何年間も事件から開放されない人々がいると知り、愕然とする。

 真っ先に思い浮かぶのが、殺人事件の被害者の遺族だ。彼等は時に被疑者が法廷で真実を語るかどうかについて悩まされ、またある時には求刑通りの判決が出るかどうかに神経をする減らすことになる。

もちろん、愛する者を失った喪失感からは逃れられない。世間から、「被害者の遺族」と見られることも、もしかすると彼等にとっては苦痛かもしれない。

 当事者たちの「事件」は、いつどのような形で終わるのか。いや、そもそも終わることなどあるのだろうか。

 私は長年、ミステリ小説というものを書いている。主に殺人事件を描き、その真相が明らかになったところで物語の幕を引いてきた。だがある時、ふと疑問に思った。自分は果たして「事件」のすべてを描いてきたのだろうか。犯人が逮捕され、警察の活動が終わった後でも延々と続く、関係者たちの苦しみを描く必要はないだろうか。

 そこで『手紙』を書くことにした。焦点を当てたのは加害者の家族だ。

 なぜそうしたのか。それは、私自身が彼等をどう扱っていいのかまるでわからなかったからである。もし身近なところにそういう人間がいたら自分はどうするか、という問いに対する答えが見つからなかった。その答えを見つけるため、この小説を書いたのだ。

 連載の期間中、私は悩み抜いた。「差別はいけない」という単純な言葉で片づけられる問題だとはどうしても思えなかった。私は小説の中で主人公をいじめ続けた。その中から彼がどんな答えを出すのか、自分でもわからぬままに筆を進めた。

 だが結局、小説の中では明確な答えを示すことはできなかった。書き終えた時に気づいたことは、これは答えのない問題なのだということだった。初めから矛盾を孕んでいた。どういう矛盾か。それは、人との結びつきなしには生きていけない人間が別の人間を殺した、という矛盾だ。

 ところがこの世は、そうした矛盾に満ちている。だからこそ我々は苦しむ。答えのない問題に直面し、立ち尽くさねばならなくなる。

 この映画の出来は見事だ。原作をとても尊重してもらったと思う。役者陣の演技力にも感激した。この映画を見た人々は、おそらく激しく心を揺さぶられるだろう。

 しかし錯覚してもらいたくはない加害者の家族にどう接するか。そんなものの答えなど、本当は必要ないのだ。その答えを求めねばならないことを、我々は嘆かねばならない。

 加害者の弟という設定の主人公が、ことあるごとに直面する「差別」という現実。人の持つ「冷酷さ」と「温かさ」を織り交ぜながらも、「事件」のその後にスポットを当てた、渾身の一作といえます。

手紙

 人間は、とにもかくにも、「違い」を嫌うようです。自分と他人の「違い」が気になって仕方がない。そんな「違い」という「差」を認めたくないために、さまざまな「争い」を繰り返してきました。

 「いじめ」も、もとはといえば、ほんのちょっとした「違い」をからかうことからはじまっています。「似ていること」には安心しますが、「違っていること」には、不安でしょうがないということでしょうか・・・。

 「しつけ」も「教育」も、まずは、親子や兄弟といえども、誰一人、同じ人間は存在せず、「違い」がたくさんあるし、それが「個性」というものだ、という事実を再確認すべきだと思います。その「違い」を認めて、尊重していくことこそ、人間関係を築いていく上で、必要不可欠なことであると・・・。

 今、会津藩のおきてに脚光が集まっているそうです。

「什の掟」

一、年長者の言うことにそむいてはなりませぬ

一、年長者にはおじぎをせねばなりませぬ

一、うそをついてはなりませぬ

一、ひきょうなふるまいをしてはなりませぬ

一、弱いものをいじめてはなりませぬ

一、戸外でものを食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。

・・・・・ならぬことはならぬものです

 人とのかかわり方が希薄になっている、といわれている現代だからこそ、一言一句、かみしめてみたい・・・。

PS.

 「笑いは差別だ」と断言する、中島らもの「何がおかしい」は、作者の「本気度合い」がビンビン伝わってくる快作だ。

 笑いとは「差別」だ。

 こう言い切ってしまおう。

(中略)

 マルセル・パニョルという作家曰く、

 「笑いとは優者の劣者に対する優越的感情の爆発である」

 これは一言で言えば「差別」ということになる。

中島 らも
何がおかしい―笑いの評論とコント・対談集

(前略)

 絶望と救済。絶望の闇の中にただ一筋見える光の線が「笑い」だ。

(中略)

 絶望から抜け出す通路が「笑い」なのだ。従って笑うことは生きることである。「笑い」は「差別」だと何度も書いたが、「差別」だから「笑い」が良ろしからぬものだと言ったことは一度もない。この世にニンゲンが一人もいなくなる日まで「差別」は存在し続ける。それを否定することは夢想者にしか出来ない(ジョン・レノンのような)。笑いが差別的構造を持つことと、笑うことが生きることであることとは、全く位相の違う問題だ。笑いはニンゲンに絶対に必要な存在だ。明記しておく。

 氏のご冥福をお祈りいたします。