沖縄人である僕が「日本国民として落ち着けるか、琉球独立を叫びだすか」についての「ありうる境目」 | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。



僕は今のところこの生まれついての「日本国籍」ということをすごく有難いことだと思っています。

特に、世界史についての書いてある本を読むたびに「あー、僕は現代の日本で日本人として生まれてすごく幸運だったなぁ」という気持ちを新たにすることが、しばしばです。

(※僕は決して若くはないですが、72年の沖縄の本土復帰の10年ほどあとに生まれた人間です。)

もちろん、日本における現行の個々のシステムにおいては、めちゃくちゃ不満に思っているところもあります。

そういう意味では僕は自分が日本国籍者であることや日本の文化(主にその人間観やサブカル)については「有難いものだ」と思いつつも、他方で「日本の現在のあり方の全てを肯定している」わけでもない。

(※沖縄に住む沖縄人としては日本政府と米軍との間の「地位協定」については、ものすごく不満があります。なぜドイツのように米軍に対して当たり前の交渉ができない?
 さらにいえば、これは完全に「9条護持」で正常な世論の醸成の足をひっぱってやまない「左派言論」のせいだと思っていますが「なぜ沖縄を日本の自国軍中心で守れないんだ?」ということにも沖縄県人としてものすごい憤りを感じます。
 さらにいえば、これは沖縄人としてというよりはいち日本人として思うんですが、日本の「プライマリーバランス追求」という財政政策による「長期にわたる地獄のデフレ放置政策」を蛇蝎のように嫌って(憎んで)もいます。)

まぁ、そのように僕は「ややもやっとしたタイプの日本好きである沖縄人∧日本国籍者」なわけですが、

そんな「極端で情熱的な政治性というものは持ち合わせない僕」が、一挙に鮮明な態度を採ることになりうるイベントというものを想定しうると思うんですよね。

まぁ、それなりには政治的な要素がある行為にあると思われるので、現行憲法下において、天皇陛下からそのような「お言葉」を僕ら沖縄人が賜るという出来事が起こりうるのか、皇室やら宮内庁行政の詳しくない人間としてはそのへんよくしらないのですが、

ようするに僕が夢想する「僕が日本に対する態度を鮮明にする契機になるだろうイベント」というものはつまり

「天皇陛下が沖縄県民のことを“すべて朕の(≒我が)赤子である”とお認めになるか、否認なさるか、についての言明なさる」

というようなイベントです。


もしそこで陛下が「沖縄県民は我が赤子である」と明示してくださったら、僕は「安心して愛国者」にすらなることでしょう。

なにしろ僕はもとが日本文化自体は大好きなので、愛国者になる素地は実際はすでに有しているわけです。
(※主に聖徳太子以来の十七条の憲法以来の「社会観・人間観」が好きです。さらにさかのぼれば「民のかまどの故事」も好きです。)

あとは、天皇陛下という「日本という存在の持続性においての背骨そのもの」というべきお方が、あの沖縄での地上戦、そしてその後の米軍による統治、という沖縄の苦難の経験を経たうえで、再度、僕ら沖縄人に向けて、

「あなた方、沖縄人は私の赤子である」と言明してくだされば、僕は喜んで「法的形式上のみならず心からの日本への恭順」を抱くことになるでしょう。

なにしろ、陛下がそうおっしゃってくだされば、よっぽどのことがないかぎり、僕ら沖縄人が心のどこかでひそかに恐れているところの「国粋主義の過激化による沖縄人の排斥活動」という「ありえないとも言えなそうな事態」を右派の側もおいそれと起こすことはできなくなるだろうと思うからです。

二二六事件では事後的ながら昭和天皇が「そのような行動を朕は支持しない」というある意味での「右派の動きについての重し」を陛下は下されたわけですよね。

 

それと似たようなイメージで言うのですが、僕ら沖縄人という存在についてもそういった「重し的なお言葉」を陛下がもし明言なさってくれたら、僕ら日本の辺境、南西諸島に住まう沖縄人もかなり「安心して日本人でいられる」ことになるはずです。

ふりかえれば、僕の親戚のおばあさんにもことあるごとに左派の言説に異論をとなえて「日本の素晴らしさ」を説いている人がいました。

いうまでもなく、そのおばあさんは僕と同じ純粋な沖縄人であり、かつ戦争を現に経験した世代の人です。

あのときの子どもだった僕は学校やマスメディアなりでどっぷり「左派のヘンテコ平和主義の洗脳」に毒されていたので「なんかいつもきな臭いことを言うおばあさんだな」とやや煙たく思っていたのですが、

そのおばあさんが当時の戦争という非常事態としての「極端な皇国史観」を植え付けられていただろうということは割り引かないといけないにせよ。

この令和という元号の時代になって冷静に世界史を概観してみても「日本以上に僕が心おちつける文化を備えている国はおそらくほかにはない」と令和に生きる僕ですら「心から確信する」わけです。

その親戚のおばあさんはだいぶ前に亡くなってしまいましたが、今さらだけど目をつむって手を合わせて「あのときは理解できなくてごめんなさい。今になってやっとわかりました。ありがとう。」と天に向かって念じたいとすら思います。

いや、せっかくそのおばあさんのことをおもいだしたんで、この記事を書いたらすぐにでもそれを実践しようと思います。

というわけで、僕が「にえきらないもやっとしたわだかまりを持つ日本文化好き沖縄人」であることの、最大の「わだかまりポイント」は、本当に日本は(≒天皇陛下は)僕ら辺境の南西諸島の人間を「我が赤子(我が同胞)」と認めてくれているのか。

という点になるんだと思います。

日本の歴代の政権が吉田首相以来の「米軍媚び」を続けて「日米地位協定」という欺瞞的な取り決めを続けようが、それを「日本の沖縄に対する日本国民の総意」とみなしてしまうのは僕は「現代左派による牽強付会の歪曲」だと僕は思います。

それ(日米地位協定)はもちろん、直接の折衝にあたる日本の官僚のみの責任ではなく、もっと複雑な要素やアクターがかかわったある意味全日本的な現象としての結果ではあるとは思いますが、とはいえそれをあげつらって「日本は沖縄を見捨てたのだ!!」と即断するのはやはりどこかバランスがおかしい。

そもそも沖縄ないし南西諸島は、地図をみたらわかるように、東アジアの地政学的要衝の一つなわけです。

日本の政府がその時々にどういうものであろうが、沖縄に基地があること自体は、古代日本に大宰府あたりに「水城」があったように、地政学的な必然であり、それは「日本本土のみならず沖縄県民のための基地」でもある。

 

僕は「命どぅ宝」という言葉のためにも、むしろ沖縄には基地(日本の軍隊がいい)があってしかるべきだとすら思っています。

 

沖縄の左派の言っている「命どぅ宝」はどっちかというと「命よりも理念が大事」といっている風にしか思えません。僕はそこには大変な矛盾を感じます。

もちろん再三僕も触れているように「それが日本国の基地ではなく米軍の基地がメインになっている」ことこそが異常なのであり問題であるわけです。米軍基地まで問題がないと僕は言うつもりはない。

そして「米軍が沖縄に居座るというなし崩し的状況」を醸成することに現に最も加担しているのは、むしろ「9条を絶対視する左派の物言い」の方だとしか思えないわけです。

えー、話しがまた僕がやらかしがちな「混乱以外なにももたらしてないように見える現代左派への批判」へとそれてしまいましたがww

僕は「日本文化に育てられてきて、大学以降においても、外国の学者の知見についてまでの、おそらく世界一のボリュームを誇る“日本語による翻訳本の層の厚さ”などにも大いに助けられつつ学習を重ねてきた人間わけで、日本文化に他の文化とは比較にならない愛着がある人間である」わけです。

最期に付け加えた翻訳本ということについては、各々の翻訳の仕事をなさってくれた翻訳家の先生への感謝はもとより、西周先生を筆頭に「漢字により西洋の概念を翻訳するという大業をなさってくれた先達への感謝」を感じないわけにはいきません。

(※僕が思うに、言語学の素人目にも、沖縄の周辺を見渡しても、やっぱり沖縄語は日本語に分類する以外ありえない言語だと思います。沖縄の南にあるフィリピンはタガログ語とかは、たしかオーストロネシ語などに分類される言葉であるはずだし。
 西におわす中国大陸はいうまでもなくシナ・チベット語族であり膠着語とは全く別物の孤立語に分類されるはずのものなわけです。
 そもそも地元沖縄の高校においての、古文の授業では、日本古語と沖縄方言との共通性を先生がしばしば「学習のヒント」としていくつか指摘してくれたことを思い出します。たとえば沖縄人(少なくても本島南部)は驚いたとき方言で「あきさみよぉ」といいますが、それが古文にでてくる「あさまし」と語源を同じにしていると考えられているようです。)

言語に無意識のレベルにおいてすら避けがたく組み込まれている価値観(※ソシュール先生が発見した“言語の分節作用”を参照のこと。また構造主義もそれを受け継いだような近しい視座が内臓されているようです。)ということについてもそうであるし、

また僕はものごころついてからいままで、日本語で書かれた主に日本人が書いた物であるだろう日本語の書物を読み重ねてきたわけで、そこに「文章として表現された日本人である著者達の明示的な価値観」についても僕はダイレクトに受容し続けてきた人間なわけです。

よってそんな「形の知における成長」を経てきた僕(まだまだ知的な未熟者ではありますが…)が心からは日本人になりきれない「わだかまり」があるとしたらそれは、「日本は(≒天皇陛下は)僕のような南西諸島の人間をしっかり日本人(≒天皇陛下の赤子)として認識してくれているのか?」という「気がかり」にほぼ収束することにもなるわけです。

万が一そういうトピックについての「陛下からのお言葉」を僕ら沖縄人が賜ったとして、かつそれの内容というものが万が一にも「沖縄はやはり元が日本にとっての“化外の地”であるわけで、朕の赤子とはやはり言い難いところがある。ただし、このまま沖縄人が日本国に恭順を示し続けるなら、よきにはからうことにやぶさかではない。」というようないわゆる「塩対応な内容」であるとしたならば、

僕はその瞬間を境にして「琉球独立派のほうに一気に振れる可能性もないとはいえない」と思うわけです。

もちろんそんな結末を「日本文化に骨の髄までズブズブの僕」が今から望んでいるわけはなくて、陛下のお言葉がもしもそういうふうな「塩対応」であれば、沖縄人としての僕は絶望のあまり「独立推進というヤケを起こすだろう」というようないちシュミレーションでしかありません。

えー、僕はこの記事でなにか、自分の態度について結論めいたことを言おうという意図はありません。なにしろ語るためにもちだした「補助線としての仕掛け自体」がかなり空想的ですからね。

ただ、僕の日本というものに対する「ややこみいった気持ち」をなるべく素直に描写したらこういうことなるだろう、ということを「天皇陛下は僕のような南西諸島の人間をなんの迷いもなく“日本人であり我が赤子だ”と明示的にお認めになって下さるだろうか?」という夢想を、そのための「補助線」として用いただけのことです。

僕は現代の皇室とか宮内庁のポリシーとか全く勉強したことがないので、そもそもそういう話題についての「天皇陛下のお言葉」というイベントが起こるという想定自体が、あまりに空想的で「ありえそうもない」ことであるかもしれないのですが、

そうであるならば、今回の文章はただの「思考実験」としかいいようのないしろものになってしまったかもしれません。

ただ、改めて自分の「日本に対する気持ち」を整理できてはっきりとできたということには個人的にすぎることながらも、僕なりには私事的な意味での成果を感じないでもないです。

「現代左派や全体主義グローバリズム」という「日本全体への共通の脅威」という現下の危機において、沖縄人である僕も「日本という基盤の下に心を一つにして共闘すべきタイミング」だと僕は信じて疑いません。

だからこそ「日本の保守」の方々や「日本の右派」の方々に、この沖縄人としての僕の「もやっとした日本に対する気持ち」を少しご理解ただければという思いもあります。

一番避けなければいけないのは、グローバリズムや現代左派に、このままいいように「日本という基盤」を壊され続けて、日本人の暮らし全体までもが損なわれ続けるということです。

これは言うまでもなく日本のみならず、沖縄にとっても重大な危機となるわけですから、そこは日本人だろうが沖縄人だろうが、本来は利益を共通にしているはずなわけです。

「沖縄」のことを「めんどうな地方だ」と多くの本土の方は思われていると思いますが、どうか沖縄の人間が抱える複雑な心理という事情も少しご理解いただきたいとは僕は思っています。

沖縄の地方紙がしばしば発する「酷すぎる偏向」に怒りを覚えるのは日本人としては「当たり前」だと思うので、僕も沖縄人としてそこは「私たちの土地の地方紙が筋違いの気分を害するようなことを書いて大変申し訳ありません」とは常々思っております。いつも私たちの地元紙がヘンテコな難癖をつけて本当にすみません。

(※ただし、僕は「日米地位協定」というトピックに関しては、ほぼ唯一、沖縄の地方紙の方向性に共感を持っています。)

 

えー、最後に読んでくださっているかもしれない本土の皆様へのメッセージをしれっと付け加えることで、この記事を締めようと思います。

僕などの沖縄人においてもなるべくなら「疑念をふっしょくしたすがすがしい気持」ちにおいて「日本という共通の基盤のもとに集ま」って「全体主義グローバリズム」に対抗していきたいものだと心から思います。

 

きっと沖縄のことを「ややこしい地方」だと思われているとは思いますが、どうか僕ら沖縄人を今後とも「日本人同胞の一部」としてよろしくお願いしたします。

では。