2020.3.11、私は友人2人と共に、福島県のいわき市を訪ねた。これまで、3/11ちょうどその日に東北に来たことは一度もなかった。今回は、あえて3/11に東北へ赴くことで、現地の人たちともに黙祷をし、震災のことをより深く胸に刻もうと思ったのだ。


 「3.11に東北に行こう」

 このことを強く思ったのには、あるきっかけがあった。昨年の夏、宮城県気仙沼市にあるリアス・アーク美術館に行ったことである。その時、私たちは三陸の被災地を周り、被害の甚大さや各地の復興の取り組みについて学んでいた。しかしながら、この美術館だけは異彩を放ち、私の考えを根本的に変え得る何かを与えてくれたように思う。

 この美術館では、被災現場を撮影した写真や「被災物」が展示されている。この「被災物」という言葉は耳慣れない人が多いだろう。これはリアス・アーク美術館が独自に使用している言葉で、文字通り被災した物、つまり世間で「瓦礫」と呼ばれているものを指す。リアス・アーク美術館のHP(http://rias-ark.sakura.ne.jp/2/sinsai/)より引用すると…

「『被災物』とは文字通り被災した物を意味します。被災した人を被災者と呼ぶように、当館では被災した物を被災物と表現します。一般にはガレキと表現されていますが、当館ではそれを正しい表現とは認識していません。瓦礫とは、瓦片と小石とを意味します。また転じて価値のない物、つまらない物を意味する言葉です。被災者にとって被災物は『価値のない、つまらないもの』ではありません。それらは破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、何よりも、大切な人生の記憶です。」

 私はこの考え方に甚く感銘を受けた。そして被災者の言葉を添えて展示された被災物を見ながら、言葉を失ってしまった。心を揺さぶられた。目の前で大太鼓をドーンと叩かれた感じだった。震災の悲惨さを、私たちが最も影響を受けやすいスケールで伝えていたからだ。この美術館の学芸員の方々は「どうしたら震災の記憶を伝えられるのか」ということについて、懸命に考え抜かれたのだなと感動した。これを私の言葉でまとめると大きく2点になる。

 まず、減災のためには、災害を記録(それはしばしば数値化されるもの)としてではなく、記憶(心に残るもの)として残しておくことが大切である。
 そして、この場合の記憶は、生活の中にある次元の言葉(それはしばしば方言)によって書かれたものの方が、有効に伝えられる。


 私は(広義の)文学を学ぶ身として、この美術館の「ものを伝える精神」について、新しい可能性を見出せたような気がして、不謹慎かもしれないが少し嬉しかったのだった。
 上のURLを参照していただくと、ネット上にも被災物の展示についてもいくらか掲載されている。それを見て興味を持たれた方は、是非訪れてみて欲しい。東京からは決して行きやすい場所ではない。しかし、行く価値は確かにあると、私は思う。


日は流れて2020.3.11。いわき市勿来にて。
防潮堤の上から海を望む。


風が強く吹いている
波は高く、轟音が鳴り響いている
大海を前に、私は何も言えない

黙祷。