『ベトナム戦記』開高 健

旅と本



旅と本 『ベトナム戦記』開高 健(1964-65


僕が初めてベトナムの地を踏んだのは922月だった。アメリカがベトナムに対する制裁を解除したのが1994年。それより少し前の話し。


この頃のベトナムは、まだ自由旅行が許されない時代で、外国人登録が必須で出入国を厳しく管理されていた。それが逆に面白かった。


従軍ジャーナリストに憧れて『ベトナム戦争本』を読み漁っていた頃、開高健の作品に出会った。


開高さんが''最前線''の基地としていた、サイゴン川のほとりのマジェスティクホテルに泊まりたくて、ベトナム行きを決め、バンコク経由のTGで飛んだ。


この本、ベトナム戦記と一緒に。


僕のベトナム入国ビザ1992年

まずは、北ベトナム、ハノイのノイバイ空港に降り立った。旅行会社の仮面を被った共産党員の監視役が僕にへばり付いた。ハノイのどんよりとした気候と同じで、寡黙であまり笑顔を見せず僕の行動を監視しながら、市内をホンダのカブで案内してくれた。


ハノイ近郊の田園風景


ちなみに、ベトナムでは、ホンダと言えば、50ccスーパーカブの事だが、バイクの事全てを指している。ベトナム語で自転車の事を、Xe dapと言い、バイクの事をXe dap Hondaとまで呼んでいた。ホンダというバイク全てを表す名詞になっている。


1992年のハノイ旧市街の街並み



そして、サイゴン・タンソンニャット空港へ飛ぶ。ここは同じ国なのか?と衝撃に突き落とされた。北と南のギャップ、全てが違う。

大阪・東京どころの違いではない。

この魔法が僕を越南の底知れない魅力に落とし入れてくれた。


92年年当時のホーチミン歌劇場

南の人々Saigoneseは、北の人間たちを、バッキーという最上級の軽蔑した言葉で呼び捨てる。

僕が北で少し覚えたベトナム語を話すと、それはベトナム語ではないバッキー(北の野郎ども)の言葉だ!と訂正された。


Oh my god! は、  

Ối giời ơi  (オイ ゾイ オーイ)ではなく

Trời ơi (チョイ オーイ)と言え

とサイゴン人たちにたしなめられ怒られた。


ベトナム戦争とは、何だったんだろう?

北ベトナムが、南ベトナムを解放したんじゃなかったのか?アメリカ傀儡政権を打倒し、国を統一したんじゃなかったのか?



僕の頭は混乱し、それからは、書かれていないベトナムの本当の姿を知りたいと思うようになり、数年におよぶベトナムを知るための長い旅に出ることになってしまい、ベトナムへ通いつめる事になってしまった。


92年当時の航空券


開高健は、ベトナム戦記のルポルタージュで、マジェスティクホテルから、ベトナム戦争の真の姿を、人々に知らしめてくれた。


でも、ここへ来て分かった事は、それは南から見えた戦争の一部で、全体では無かったという事だった。当時北へはいけなかっただろうし。


それから、僕は、僕自身の目で見たベトナム戦記を僕の心に刻んでみたいと思いベトナムに通い詰めた、住むことにもなった。


さて。92年のマジェスティクホテル



シクロバーというバーカウンターがあって、そこで僕はちびちびマティーニを飲んでいた。


サイゴンリバーを見ながらグラスを片手に、とは行かなかった。そこまで素敵なバーではない。一階のロビーの一角に小ぢんまりとあったやつだ。


僕は、そのシクロバーで働く、フンさんというバーテンダーと仲良くなり数年来の友となった。

そして、文通を重ね交流を深める事になった。メールもネットもない時代の事だ。



この本は1964年末から65年初頭にかけて、開高健がサイゴンから「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高健自身が大急ぎでまとめて緊急出版したもの。


ベトナム旅行の友にぜひこの本を。



最前線はどこですか、どこですかと聞いて、そのたびにたしなめられた。全土が最前線だというのがこの国の戦争の特長である。ベン・キャットも最前線ならサイゴンのマジェスティック・ホテルだって最前線である。いつフッとばされるかわからないのである。

(本文より)



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