金網の向こう 陽にやけ果て

干からびてく 通り道


知らない横顔を 目で追いかけ

萌えた花の蜜をのむ


ここから走り出す力が欲しい

小さく丸まって その合図を いつだって 待っていた


見上げれば 終わりをみたこともない

目眩を覚えるような空

あの丘を越えれば いつも あなたがいた

さよなら かわいい夢


“おまえはいい子だ”と 愛しい声

錆びた欠片 積み上げて


“おまえのためだよ”と キスをくれて

陽はまた落ち 夜が明ける


まっすぐ笑えない だけど笑って

わたしのためだけに 走れるなら まっすぐに 守れたら


繋がれた風さえ 動き始める

岬にやさしい雨の跡

強い光は 影を焦げつかせて 冷えた

愛から 覚めるように


見上げれば 終わりをみたこともない

目眩を覚えるような空

あの丘を越えれば いつも あなたがいた

さよなら かわいい夢の匂い


繋がれた風さえ 動き始める

岬にやさしい雨の跡

強い光は 影を焦げつかせて 冷えた

愛から 覚めるように


「ポロメリア」 作詞 Cocco



ブログのタイトルを変えました。

一人、増えて、401になりました。

でも、だれが増えたのかわかりません。


ブログを突然「死にたい」みたいな情緒不安定の病院通いみたいな文章で締めたあと、突然更新をやめたため、心配してくれた友人も多かったように思います。

正直、死んだほうが楽だった。

もう死んでも、生きても、別にどっちでもいいやと思うほどの精神状態の中、救ってくれたのは友人でもなく、家族でもなく、自分でもなく、この歌だったように思えます。

いや、救われたのかわからないんだけどね。

人に気を使うのをきっぱりとやめた数ヶ月間の間、はじめて自分のことだけを考える日々を送ったような気がします。

「え、あれでひとに気を使ってたの!?」って思う友人は多いように思いますが、それを人に思わせないくらい気を使っていた自分に気がついて、それでへとへとに疲れていたことを知りました。

なんて、えらそうでしょ。


でも、MixiやFacebookで知るみんなの現状は、あまりにも甘ったれで、幸せで、平和で、自分を苛立たせました。

倒れたんだか、入院したんだか、病気になったんだか、金盗まれたんだか、離婚したんだか、彼氏と別れたんだか、ただ精神が安定しないのかしりませんが、あんたは幸せで、それをわかんないあんたの汚い面ひっぱたいてやりたいって思う何ヶ月でした。

じゃあ、なんで死なないのよ。死に方教えてよ。あんた、お願いだから、死んで見せてよ。

もう、そんなことを真顔で言い募る日々。

「なんで生きてるのか」ということだけを考えながら、ただ、やりすごす日々。

周りがどうにか自分が死なないようにと気使われることが、こんなにうざかった日々。

なんで、自分は、こんなにがんばっているのか。

これからが、もしもあるとするならば、それはどこから、どうすればいいのか。


でも。

「ここから走り出す力がほしい。」

そんな歌に、こんな歌に、共感したり、涙したりしている自分に気付いて。

「なんだ、じゃあ、思い切りがんばってやろうじゃないの。」

って思ってる、あほみたいな自分に気付いて。

いや、時間であるのか。

それとも、それを知らずにあっけらかんと笑い飛ばせる、自分の大切なあほな友人共なのかもしれないけれど。

熱は愛から冷めるように冷えて、くっきりとした跡を残して、そうしていつか、また雨は降るのかもしれないけれど、みんな、どうせ、いつかは終わる人生ならば、それをあほみたいに、笑っていこうかな、と。

それを思えるくらいに、自分は強いし、そして自分の友達の頭はからっぽだと。

だから、自分は生きていける。

ね、ありがとう。阿呆共。


「そうしながら人は生きていく」みたいにして思えるならまだいいほうで、まだ、正直、自分のことしか考えられません。

ひとがどうして生きているのか、わかりません。

友人の頭が本当にからっぽなのか、それとも自分にからっぽだと信じ込ませるくらい賢いのか、そのくらい気を使ってくれているのか、まだ考えられません。

自分がただ、なんかしらないけれど、まだ平気であるという事実と、それから大切なものが意外といっぱいあるということ。

それは自分が今まで知らなかったほどに、たくさんあるということ。

そして、それは、自分を取り囲むひとりひとりであって、そして、なによりも、自分自身であるということ。


400という、ふざけた名前のブログを、とても、どうしても、更新することはできなくて。

いっその事閉じてしまえと考えたんですが、でも、こんな駄文であっても書くことははけ口であったので、どうしても止められませんでした。

だからって実際はこのとうに越えている、400という数字を伸ばしていくブログには、とうていならなそうでした。

ああ、吐きそう。


そうしていたら、彼氏ができました。

もう、自分の精神のもやもやも、なにもかも、かわいい外観まで(うふ)、全部受け止めてくれる、ベッカムそっくりのイケメンが、自分を好いてくれているという、奇跡。

いや、奇跡ではなく、これをつないでいくブログに。

大好きなカウボーイは、未だに定期的に連絡をくれて、そうして電話越しにキスをくれます。

そういう、なんか、生きるとか死ぬとか考える前に、「愛だろ、愛。」みたいな、そんな、ブログに。

もしかしたら410以下で自分は死ぬことを選ぶのかもしれないけれど、でも、そこまで10は愛で生きられるような、そういうブログに。

なんか、「死にたい」とか言ってたけど、家族や、恋人や、友人に、なんかしらないけれど、びっくりするくらい愛されているので、死ぬに死ねない、みたいな。

そういう。愛に、満ちた。


自分のしばらくの目標は、この数ヶ月をひとりで歩けるくらいまで支えてくれた家族、友人に報いることと、それから愛を与え続けてくれるだろうその401人目に出会うこと。

これから語る全ては、405人目でも、409人目でも、それは自分にとっての「401」であるということ。

そうして、いつか、どうにかこの人生を、「幸せだった!」って終えること。

それを全部ひっくるめて、今のこの自分の強さを与えてくれた、本当に、強靭な肉体と精神を与えてくれた、自分を形成したのであろう、過去400人の男性に、感謝するということ。


もう、アメリカ生活あと3ヶ月ですが、無事、ブログ再開します。

ああ、大変だったけど、ただいま。

眠れない夜をもう何度も やりすごしたはずだろう?

悲しみの海を 溺れながら ここまで来たはずだろう?


だからこそ その先へ


もう傷つきたくはないよ 正直 今も思っている

どれだけばかなんだろって 自分を嘲笑って


行き場のない思い また抱えても

「愛」なんて見えもしないもの 求めるの


泣いて泣いて泣いた日も なんとか持ちこたえたはずだろう?

出口の見えない暗闇さえ 歩いて来たはずだろう?


だからこそ その先へ


行き潜めてても 時間は経ってく 怖がってるうちに

どれだけばかなんだろって 自分をまた嘲笑って


行き場のない苦い思い 知ったから

今はもう 本当の「愛」しか 要らない


眠れない夜を もう何度も 乗りきったはずだから

悲しみの海を でもなんとか 泳いできたはずだから


何も起こらないように願って 誰とも関わりたくなくて

でもそんな日々を過ごす為に ここまで来た訳じゃない


人生の意味なんて知らない 開き直りでも何でもいい

眠れない夜の 悲しみの海の 出口の見えない暗闇の その先へ


<Dreams Come True 「その先へ」、詩:吉田美和より抜粋>



なんで生きてるのかわからなくなりました。


なんて言ってるとまた本気で心配とかされたりとかするんですけど。

大丈夫だから電話とかメールとかしないでください。

でも、多分、そういう年なんだろうねー。

なんか落ち込む時期っていうか。

考え込む時期っていうか。


でもね、生きるっていう、この途方もないくらいの広大なプロセスは、なんのためにあるんだろうと。

おいしいものを食べたりとか、世界中を旅行したりとか、素敵な男性と初めてデートでキスをしたりとか、仕事で成功したりだとか、そういうときに、「ああ、生きててよかったー」とか思ったりする。

温泉入ってたりとか、家に帰ってきて最初のビールを飲み干す瞬間にも。

でも、その瞬間瞬間の、その数日後もしくは数時間後には、自分が「日常」と呼んでいる時に戻っている。

そうして嫌なことだとか、いいことだとか、そういう経験や思いをするために。

その時をずっと紡いで「人生」を完成させるために、生きているんだろうか。

それとも、そんなひとつひとつの瞬間はただのおまけのようなもので、それを紡いでいくことでひとつのゴールを目指していくのだろうか。

そのゴールって、それは死ぬ瞬間なんだろうか。

それとも、例えば大金持ちになるとか、地球一周するとか、そういうことなんだろうか。

ひとつひとつの小さな幸せを味わって、健康で、長生きすることが、それが生きている意味なんだろうか。


友達にも聞いてみたいけど、「あんた、何で生きてるの?」とはちょっと訊きにくい。

なんか納得するような答えが返ってくるようなひとは、周りにいない感じだし。


じゃあ、逆の発想で、死にたくない理由ってなんだろう、と考えてみると、それはそれでまた見つからないのです。

周りが悲しむからなのか。

でも、意外にも悲しまないかもしれない。

そりゃあ、葬式にでて涙のひとつでも流してくれるだろう友人は沢山いるけれど、でもそのひとたちが一生の傷を負うのかと言えばそうではなさそうだし、まあ、最悪負ったとしてもまたそれぞれ「日常」に戻っていける強い人たちばかりに囲まれている気がする。

逆に、大変失礼だけど、でも自分だって例えばどの友人を失って深い深い悲しみに落ちても、それで「日常」に戻ることが出来なくて、自分が精神を病んで病院に入ったり、後を追って死んだりとかはしなさそうな気がする。

カノが死んだら、ものすごく悲しいけど、でも何年か、もしくは意外と何ヶ月かでなんとか自分は立ち直って「日常」に戻れそうな気がする。

母さんや侑子が死んだら、もう絶望的に悲しいけれど、それでも自分は死なない気がする。

大きな変化や、動揺や、傷を残したとしても。

じゃあ、彼らも多分同じだろうから、自分が死にたくない理由がみつからないのです。


死にたくない理由はないのに、生きている理由がないなら、死ね、みたいな話になるのですが、でもなんかしらないけど、そういう気分では、ない。

一向にない。

死にたくない理由はないけど、死にたい理由もないからなのでしょう。

もしくは勇気がないからなのでしょう。

正に、生きる屍状態。


自分が常に思ってきた、「いつかどうにかして幸せになりたい」はあまりにも甘ったれた、曖昧な、妄想に近い戯言であるような気がするのです。

30目前になってこんなことを考えているようじゃ、本当に負け組なんでしょうが。


3月の頭からずっと、なんか毎日をやりすごすような、上滑りしているような、なにか楽しいことをしていても、悲しいことをしていても、なにを考えていても、なんか現実味の薄い、夢を漂っているような、そんな感じがします。

どっちが現実で、どっちが夢なのか、分からない感じ。

このまま生きていて、なにがあるのか、じゃあ死んでなんかいいことがあるのか。

まあ、メリットデメリットで言えば、生きてても本当に人様の迷惑になるような感じではなさそうだけど、死んだらいろんな人が悲しんだり迷惑を蒙ったりしそうなので、だから生きるほうを選んでいるような。

それで、じゅあ、周りはどうして生きてるんだろうと、周りのいのうえっちとか、りっちゃんとか、てることか、あむくんとか、あさちゃんとか、いろんな人を観察したりしてるんだけど、でもあんまり自分と大差ないような感じもするのです。

毎日のちょっとした幸せを楽しんで、ハプニングに動揺し、それを乗り越え、成長し、そうして日々を紡いでいる。

それが何の意味を成すのか、わかんなくなっちゃったんです。

明日なにが起こるかわからない探究心?

そんなのとっくにない感じがするし。

仕事のやりがいは今のところないし、大体仕事に没頭してそれ以外は必要ないようなタイプではないし。

宗教にはいったら「神の為に、仏の為に」とか言って生きがいができるのかもしれないけれど、あまり辻褄の合わないことは苦手なので、それもちょっと難しそう。


将来、「ああ、生きてて良かった。本当に人生っていいもんだ。」って思える日が、いつかくるかもしれないから生きているのか。

それってかなりミクロな視点じゃない。

そんなものなくたって地球は回るし、世の中は動く。

恋に落ちて、結ばれて、生命を生み出し、それを守るために一生を捧げるのなら、生きる意味もありましょう。

でも自分はゲイだからそんなのありえないし、大体じゃあそれを終えたじじばばはみんな死ね、って話になりますでしょう。

じゃあ「私が生きていることで世界は救われる。私はこの地球に貢献している。」と胸をはって言ってる人は、自分の周りには、いない。

いのうえっちとか、りっちゃんとか、てることか、あむくんとか、あさちゃんとかは、なんで生きてるんだろう。

自分が観察した限り、みんな意外とあんまり深い考えもなさそうで、目の前のことや、もしくは十年後とかその先とかの近い将来を見据えながらもしくは地味な過去の思い出話をしながら、毎日を地味に暮らしているっぽい。

「何で生きてるのか」なんて議論、誰も真剣にしてくれなさそうだし、大体酒の場でそんな話を持ち出したら喧嘩になるか絶望するか刺し合いか無理心中かで、結論がでてもあまり幸せな結末ではなさそう。


ただ。

自分が最近、学んだこと。

それは、人間は簡単に死ぬし、でもなかなか死なない、ということ。

震災の映像をみていて、不謹慎な言い方だけど、でも、人はびっくりするくらいあっけなく命を落としていく。

でも、この体、自分の肉体は、精神的な支えもあり、しっかりとここにあって、びっくりするくらい頑丈に出来ていて、なかなか死にそうにない。

なんでだかよくわかんないけど、でも、人間ってあっというまに死んじゃうのに、全然丈夫。


先へ。

先に、行く必要があるような気がする。

それは、全く別の価値観を得るために。

この頑丈な体を信じて、なんだかんだ過去にあった笑ったことや怒ったことや泣いたことを盾にして、その先へ。

先がなんだか、よくわからないけれど、でも、自分に立ちはだかった、このわけのわからない暗雲の、そしてその先へ。

あきらめて、訳がわからなくなって、意味もわからなくなって、ただやりすごす、昨日も今日も明日もあさっても、その先へ向かう何かだと信じて。

今まで築いてきた、夢だと信じた、理想も希望も愛も情も宝も、全部、全部、無になっても。無であっても。

それがただの思い込みであっても。

そうして、今、この手にある全てを投げ放って、そうして、その先へ、向かう力が。

何かが。

それが、今、欲しい。

そうして、明日たとえ死んでもいいと思えるくらいの、何かが、欲しい。

今は、日々続くこの悪夢が、いつかなにかの意味があると思えるように。

そうして、いつかその先へ乗り越えられたとき、「生きるってこういうことだ!」ってわかった瞬間に、死にたい。


今は、日々の友情も家族もセックスも恋人も仕事も酒も音楽も震災も放射能も被災者もテレビも会話も電話もネットもご飯も天気も地球も休日も平日も夜も昼も。

実は全部いらない。気にならない。関係ない。どうでもいい。

全部本当は、意味を成していないんだけれど、でもただ毎日をやりすごしていくためだけのツールでしかないんだけど。

でも、ありがたいことに、そういうひとつひとつが、「生きるってなに」とか、「死ぬことってなに」とかっていう余計な考えから引き離してくれて、そうして、悪夢を見ることから救ってくれている。

どうでもいいことを、何かであるようなふりをしてそれをやりこなして、気付いたら、一日が過ぎている。

そうして、どうでもいいことに救われていることに気付く。

それを無感情でやりすごすことによって過ぎていくこの時間の集合体が、自分を生きさせて、そうしてそれがいつか何かに意味を変えて、いつかその先へと自分を押すちからになればいいな、と。


なんて、酔っ払って熱く語っちゃった。

だめね、こんなんじゃ。

情けない。

自分の人生で、2011年3月は、忘れられない、もう、一生涯残り続ける、そんな月でした。

忘れられないっていうと、なんか過去完了で、全てが終わったような感じがするけれど、それは終わりではなく始まりで、それは新しいなにかが続いていく、そんな一ヶ月でした。

もう、わけがわからなくて、整理がついていない、でもついていかないであろうことが、今も山ほど残っていて、でもいろんなところで自然と決着が着いていて、それをただやり過ごしていかないといけないだろうことが始まった、そんな。

悪夢をただ、ただ、ひたすらと死に物狂いで、ただ凌ぐような、そんな。

ただそんな、最悪なんだか、ましなんだかわからないような31日間も終わりを迎えていて、それにちょっと第一章がここで終わるような感じで。

このブログも、もうやめようと思ったんですが、いっちょまえにも「書くこと」はなんかのはけ口であったりとかするので、日々の暮らしをここに綴っていこうと思います。


まず、被災された方々に一刻も早い復興と、無事と、安全と、それから失われたひとやものに、心よりお悔やみ、お祈りを申します。

自分が個人と言うちっちゃいレベルで泣いたり、絶望したり、腐ってたりした中で、その数日後に破壊された生まれ育った祖国の映像やニュースは、自分のちっちゃい個人に大きな想いを与えました。

1万人を越える死者の数は、自分が死んだりとか、生きたりとか、そういうミクロな意味で、本当にどういう数字であるのか現実味を帯びず、自分が例えば明日死んだりしてもそれがなにか意味を成すのか否かがわからなくなるような、そんな大きな文字でした。

その数字が、その人たちの人生を指すには、あまりにもおおきすぎる数で。

なにができるのか、大体自分に誰かに何かをできるなんていう力があるのかさえも分からず、ただただ自分の置かれている状況から逃げるようにして、あさちゃんに電話をしてボストンで募金活動を始めました。

今日の募金で15万円を越え、目標の20万円にもうちょっとでとどきそうです。

はっきりいって、自己満です。

自分のこの手に、まだ誰かを助けたり、救ったり、そんな力が残っているのか試すことによって、自分が助かりたいと何かに縋っていたような、そんな気がします。

この20万円っていうお金が、いつか復興した東北の街に、このボストンという遥か離れた街に住むアメリカ人やその他市民の慈悲がすこしでも届いているということに気付いてもらえたら。

そして、それを集めるために3月の寒空何時間も声を張り上げた日本人がいたという事実がちょっとでも、そこにあったのなら、うれしいと思います。

本当は自分自身を救うための募金運動だったのに、多分本当に祖国を思うために立ち上がってくれたあさちゃん、めいちゃん、いのうえっち、あむくん、はこだて、なおちゃんは、本当にすごい人なんだと思う。

それから、これに力を貸してくれた全ての日本人が。

自分は自分のためじゃなかったらできなかったと思うから。


カウボーイが帰ったり、愛を語り合ったり、終止符をうったり、けじめをつけたり、それでも救われたり、涙したり、まさみが支えてくれたり、日本に帰ったり、祖国が危機を迎えたり、プロビデンスでちいさな同窓会ををしたり、仕事で失敗したり、そんな浮いたり沈んだりの毎日で。

それがこんな大きな意味をもつなんて、平凡な日々が素晴らしいとは、全然想わなかった。

カウボーイは、世界で一番素敵なひとで、救われています。

このひとがいるから、自分はいままっすぐと前をみていられる。

こんな理不尽な毎日でも。

何度も救われて、あまりの素晴らしさに涙して、涙して、そうして立て直して。

自分の人生で一番すばらしいことは、多分彼に出会えたことなんでしょう。

それから、すばらしい家族と友達に恵まれたことなんでしょう。

そういうふうにまだ思えない人が被災地にはたくさんいて、でも、きっといつか分かるんだろうと思う。自分の人生を数字に置き換えると、それは津波がさらった数の、たった1でしかないということ。

だからこそ、それを増やさないように、足をふんばって、ここに立たなければいけないということ。

家族も友達もカウボーイも、そうやっていなければ、大切さに気付かなかったかもしれないという危うさは自分を日常に戻らせる。

そうして明日もやっていこうと思う。

人生はやりすごすものではなく、生きるものであると。

大げさだけどね。

でも、生きてるんだもん、仕方が無いし、それは素晴らしいだろうし、それはすごく恵まれているのだろうと。

日本のニュースは、そういうことを日々自分に知らしめて、そうして無理矢理にでも前を向かせる。


楽しいこともあって、悲しいこともあって、ただそれが壊れたメトロノームのようにして両端を行き来することが、それを見ることがつらかった一ヶ月でした。

でも、それはこれからも続いていくのでしょう。

そんな始まりを、ただ毎日笑ってすごせる、なにもかわらない自分でいたいということ。

それだけをただ祈り続けたいと思う、そんな未来に続くような気がするのです。