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インドアでロウな生活

ときにあることですが、人から悩み事というか相談事というか愚痴というか・・・そういう話をされることがあります。最近とみに多いです。トラブルが流行っているのでしょうか?
まずはよく聞くことにして、一通り吐き出して落ち着いたら、意見を求められれば言います。私なりの第三者としての意見。でも半分以上は、私の意見の出番はありません。吐き出したら軽くなるようで、少しふわふわしながら帰っていきます。
私も良かったと少し安心します。その時には気付きません。
しばらく経つと、自分が少し重くなったことに気付かされます。軽くなった分を背負っているような。私の意見も一緒になって堆積しています。特に度重なってくると、次の日の朝から倦怠感がすごいです。
人はこうして押し付けたり押し付けられたりして、関係しています。自分の重みを分かち合ってくれる人の有難さを感じ、大切にしたいと考えます。
ところで、普段は時間とともに消え去っていく重みが、周辺がトラブル続きのせいか、なかなか離れてくれません。歩くたびに地面に足が沈むような感じです。どげんしたらよかでしょうか?

9月に入り、一つ年をとりました。

ノルウェーの森で、直子が言っていたように、

「年をとるのなんてばかみたい。何も変わらないのに、

年だけとっていく。」

そういう感覚わかります。

小学生の頃は、誕生日を迎えるたびに、

ものすごく興奮していました。

すごく大きくなった!みたいな。

実際、その時の1年というのは、

人生の10%以上のシェアを占めており、

大きな出来事だったのです。


年を重ねると、一年一年の密度が相対的に薄まり、

さしたる期待や不安もないままに、

誕生日が過ぎていきます。

年をとるということ、何かを得るということは、

その逆に、何かを失うことを意味します。

年をとることで、青さや、甘酸っぱさ、いわゆる若さというものを

否が応でも失っていきます。

こうして何かを得て、何かを失って、

日々の積み重ねが自分に何を遺すのか?


ずっと先で、ふとしたきっかけで、

その人の遺した何かが輝くかもしれません。

人知れず。

誰も知らず。

何かを得て、何かを失って、

それでも一生懸命続けて、

何か自分に残るものがある。

それがなんであるか?いやないのか?

死ぬまでわからないし、

死んでもわからないかもしれません。


何が言いたいかというと、

年をとるということは、それだけで価値があるのです。

「また年をとったあ」 も

「やっと20歳になったあ」 もおいときましょう。

すべては時を重ねることに他ならないのです。


だから、老いも若きも

誕生日には、「おめでとう!」

「ありがとう!!」

という単純なキャッチボールが

もっとも似つかわしいと思うのです。


夜の仕事の仮眠室には布団がないため、

板状のベッドの上でゴロ寝します。

ふだんは、クーラーがんがんのため、

冷房なしの部屋は、最初は苦痛でした。

しかし、冷房なしで眠ると目覚めがすっきりしています。

汗をかいて起きたりもしますが、

そういう時は、無理に休まずに、本読んだり、

書類作業をしたりします。


ここにきて、布団なしでは肌寒くなってきて、

秋が深まってきていることを感じました。

朝晩冷えると思っていましたが、

布団がないと、よく体感できます。

そろそろ毛布を持ち込む季節かもしれません。

久しぶりに自然法爾を感じた夜でした。


自然法爾とは、親鸞上人の言葉で

「自力をすて、如来にょらいの絶対他力にまかせきること。人為を捨て、ありのままにまかせること」

らしいです。


ですので、この際は、

久しぶりに自然を体感した夜でした。

が適当です。


真の達人は、

やはり親鸞上人のように、

自然法爾の精神で難事を乗り越えていく気がします。

どんなことも落ち着いて対処します。

他人任せということではなく、

自分の力の及ぶ範囲ではもはや成す術はないという

絶対努力に基づく他力本願

流れるように流れてみる精神を感じます。

また、真心とは、自分自身の気持ちからでるのでなく、

こういう自然法爾の心から出るような気がします。