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「なぜ自分が生まれる前の戦争の責任で、現在の国防の選択肢が縛られ続けなければならないのか」

この気持ちはわからないでもないですが、人間関係に例えにすれば、「俺のおじいさんは彼のおじいさんを殺して、家を荒らしましたが、彼の先祖は寛大で、俺のおじいさんは十分に罰を受けることもなかった」、なのに俺は今先頭に立って彼に敵視敵対している。おかしいじゃないですか?

 

Answer

その人間関係の例えは、まさに**戦後日本がアジア近隣諸国との間で抱え続けてきた「歴史認識問題」の本質**を、非常に生々しく、かつ鋭く突いていますね。

「おじいさんの世代にひどいことをしたのに、なぜ今、子や孫の代の俺が(憲法を変えてまで)相手に対して強い姿勢を取ろうとするのか。それは道理が通らないのではないか」という倫理的な違和感は、戦後日本のリベラル派や、近隣諸国の国民が抱く不信感の根底にあるものと全く同じです。

なぜこの「人間関係のモラル」のような歪みが生じてしまうのか。それは、国家の関係を「個人の人間関係(地縁)」に例えた場合と、実際の「国際政治(生存競争)」との間にある**決定的な断絶**が原因です。

この問題の背景にある「もう一つの論理」を整理してみます。

 

## 1. 国際政治には「警察」がいない

人間関係であれば、おじいさんの代の因縁があろうとなかろうと、今まさに相手がナイフを持ってこちらの家の前に立っていたら、警察を呼ぶか、鍵を閉めるか、自分も武器を持たなければ命が危うくなります。

「かつてこちらが加害者だった」という歴史的事実は、**今そこにある現在の脅威(ミサイル開発、領海侵入、軍拡など)に対する物理的な防衛の必要性を、1ミリも減らしてくれない**という残酷な現実があります。

 * **個人の倫理:** 「過去にこちらが悪かったのだから、相手の警戒や怒りを受け入れ、こちらは低姿勢でいるべきだ」

 * **国家の論理:** 「過去にどちらが悪かったにせよ、今、国家の主権や国民の命が脅かされるリスクがあるなら、それを防ぐ手段(国防)を整えるのは政府の第一の義務である」

現在の9条修正論の背景にあるのは、後者の「国家の論理(冷徹なリアリズム)」です。

 

## 2. 「寛大だった彼」もまた、変わってしまったという認識

ご提示いただいた例えの中で、重要なポイントは**「彼の先祖(近隣諸国)は寛大で、俺のおじいさんは十分に罰を受けなかった」**という部分です。

戦後の日本人の多くは、戦後賠償やODA(政府開発援助)、そして「平和憲法を堅持して二度と軍事大国にならない」という姿勢を示すことで、相手国との間で「和解」が成立した、あるいは寛大に許された(水に流してもらった)と考えていました。

しかし、ここ数十年の間に、周辺国の状況が大きく変わりました。

 * **軍事的な台頭:** 近隣諸国が巨大な経済力と軍事力を持つようになり、日本を質量ともに圧倒し始めた。

 * **ゴールポストの移動:** 日本側が「これでもう解決した(1965年の日韓請求権協定や1972年の日中共同声明など)」と思っても、相手国の政権交代や国内事情によって、再び歴史問題が蒸し返される。

これにより、現在の日本の一部(特に保守派や若い世代)には、**「いつまで謝り続ければ『許された』ことになるのか。こちらがいくら低姿勢でいても、相手は軍事力を増強して圧力をかけてくるではないか」**という疲弊感と危機感が生まれています。つまり、「寛大だったはずの隣人が、今は武器を持ってこちらを睨みつけている」という風に見えているのです。

 

## 3. 「敵視」なのか「防衛」なのかという解釈のズレ

あなたが「先頭に立って彼に敵視敵対している」と感じられるのは、非常に真っ当な感覚です。周辺国から見れば、日本が憲法を変えて軍備を増強することは、かつての「おじいさんの狂暴性」が蘇る兆候に見えるからです。

しかし、現在の政府や改憲派の建前(そして多くの支持者の本音)は、**「敵視・敵対」ではなく「抑止(手出しさせないための防衛)」**です。

> **【心理のミスマッチ】**

> * **周辺国から見た日本:** 「過去の反省を忘れて、また俺たちに突っかかってくるのか(敵対行為)」

> * **日本(改憲派)から見た周辺国:** 「過去のことは申し訳ないが、だからといって今、丸腰のままであなたたちの軍事的プレッシャーに怯え続けるわけにはいかない(自衛行為)」

 

### 結論:解けないジレンマ

あなたの言う通り、人間のモラルとして見れば、「かつて加害した側が、被害者側に対して武器を構え直す」というのは極めて不条理で、おかしな構図です。

ですが、国際政治の場においては、**「過去の倫理的負債」よりも「現在の生存」が常に優先されてしまう**という冷酷な原則があります。

「おじいさんの罪」を背負ってどこまで低姿勢を貫くべきか、それとも「現在の自分の命」を守るために過去の因縁を脇に置いて鍵を強化すべきか――。憲法9条をめぐる議論の本質は、まさにこの**「倫理(過去への誠実さ)」と「生存(現在へのリアリズム)」のどちらに重きを置くか**という、正解のないジレンマそのものと言えます。