今日のテーマは死を克服する
あなたは、神に祈る時はどこで祈りますか?そしてどの神様に祈りますか?
あなたが祈る神様がどんな方かご存じでしょうか?どんなご性質をもっておられるでしょうか。
人が作った神は人格をもちません。けれど人を造った神がいらっしゃるならばどうでしょう?
聖書が語る神は後者の方です。
えーでも、旧約の神様ってなんか厳しいし、すぐ人滅ぼすし…って思っている方
めちゃくちゃ多いのです。でも、聖書の本質がわかればあなたが思っていた神とはまったく
違うという事に気が付くでしょう。
本題に入る前に一つ、重要なことをお伝えさせてください。
ヤハウェと呼ばれる神とイエスキリストは同じです。
ヨハネの福音書10章でイエスはこう語っています。『父(神)と私は一つです』と。
これはイエスが神だということを公に宣言しているのです。
よく映画でカトリックの方が父と子と聖霊によってアーメンというセリフを聞いたこと
あるかと思います。この3つが合わさって一つの神なんです。
全知全能である父の性質を持つ神、万物のすべてを創造し、人を罪から救ってくださる子なる神(イエス)の性質、人々の助け手となる、聖霊。この三つの性質の神は常に一つで
離れることはありません。
さて、この神がどんな神であるか、それは愛と義の二つを持ち合わせた方です。
人間に憐みをもち、悪いことをすれば義なる神でもあるので裁きはくだしますが
常に人間を気にかけているのです。
例えば、創世記でアダムとエバが、食べちゃダメだよっていった禁断の実を食べた時に
アダムとエバは『やべっ!』と思って神におそれをなし隠れてしまいました。
その時に神が二人に発した言葉は『どこにいるのか?』
このように呼びかけました。
この言葉は、どこに隠れているのか?と聞いているんじゃないんです。神はすべて
知っているので、アダムとエバが自分の口から、禁断の実を食べてしまいました。
ごめんなさいという言葉が聞きたかったのです。
神は人が悔い改める(神の意志に背むいたあと、罪を認め神のもとに立ち返るという意味)ならば、見捨てないで何度でも救おうと手を差し伸べてくれる愛の神。
他にも、こんな箇所があります。
ある人が百匹の羊を持っていたとします。そのうちの一匹が迷い出ていなくなったら、その人はどうするでしょう。ほかの九十九匹はその場に残したまま、いなくなった一匹を捜しに、山へ出かけるでしょう。 そして、もし見つけようものなら、何ともなかったほかの九十九匹以上に、この一匹のために大喜びします。 同じように、わたしの父も、この小さい者たちの一人でも滅びないようにと願っておられるのです。マタイ18章
もし、あなたがこの世で生きている中で道に迷い、見失ったとしても神はあなたを見つけるまで
探し続けてくれるのです。100人のグループの中であなただけが、いなくなってしまったら?
まあ、一人くらいいなくてもいいかとはなりません。
親は、何人兄弟がいようが一人でも親の元から消えてしまったら、大騒ぎして探しますよね。
もし誘拐されたとして、そのまま殺されてもかまわないなんてありえません。
自分の命を投げ捨ててでも、子を救うはずです。
今も生きるまことの神とはこういう方なんです。
聖書で語る一番大切な事は、神が人間の命を守る!
もともとこの世に死という概念はありません。けれどアダムとエバが犯した罪故にすべてのものが呪われてしまいました。でも、もしこんなことがなければ死という事を私たちは知らなかったはずです。
聖書では、最後の日に人々は復活すると言われています。私たち人間は死んだら終わりと思っているのも、まだ復活したことがないから。
まさに強くてニューゲーム!!状態突入できるんです。バイオハザードでいうと、初めから無限ロケットランチャーをもっている状態😆✝️
神は人が罪によってもたらされた死をなくそうと
してくれています。すべては地が呪われる前のエデンの園のような完璧なものに修復してくれるのです。 今は信じられないかもしれません。けれど信仰は聞くことからはじまります。
ぜひ、あなたを愛する神様の言葉に耳を傾けてみませんか?
福音ルカ