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ワールドドール(World-Doll) 店主の佳山です!(^^)!
こんにちは
秋晴れですね。
僕が住む堺市南区は暑くもなく、寒くもない、過ごしやすい日が続いてますが、
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
僕は、この堺市に引っ越してからは、ブログを書くときは、
いつもリビングのダイニングテーブルで書くようにしているのですが、
リビングがバルコニーと面していて、大きな窓から長閑な景色が見えるようになってます。
この景色を見ながらブログ書いてると、なんだか落ち着きます。
今日は久しぶりに、ドイツ人形の歴史です。
人形の発祥地、ウォルターハウゼン Waltershausen
この文章はは1888年に出版されたA.Triniusの”Illustrierte Welt”によって書かれました。
チューリンゲンの森に住んでいる多くの人は人形職人として働いていました。
南部には、栄えているソンネベルクの町の周りに村が群生していました。
もう片方の北部の山にある森に住んでいる人々は、ウォルターハウゼンにある会社のために手作りで仕事をしていました。
ソンネベルクとウォルターハウゼンは世界に人形を提供するために協力してきました。
ソンネベルクがより人形を生産していましたが、ウォルターハウゼンは同じ製品を生産していました。
発明する点では、ウォルターハウゼンが主要な町でした。
彼らは新しい工場を始めることによって徐々に発展してきたのです。
人形に関係する仕事はどのような人にとっても難しいものでした。両方の町の工場は人形を生産するために役立ちました。
それぞれの部品は、あらゆる国からこれらの工場に輸入されてきました。
村に住んでいる多くの人は手足を彫刻し、頭や体を形づけ、旋盤にあるボール関節を作っていました。
これは多くの家で朝から夜まで行われていました。学校から帰ってきた後は、子供も手伝いました。
詰めて縫わなければいけない体がありましたが、
それは12個ごとにわずかなセントにしかなりませんでした。
多くの人々が力を合わせて仕事していました。
ペインターが住んでいる場所では、生き生きと塗装された人形の頭が家の窓やガーデンの塀沿いなどで並べられているのが見られました。
あるペインターは唇やえくぼを専門的に塗装していました。
あるペインターは目とアーチ形の眉毛の塗装を学びました。
他の多くのペインターたちはそれぞれの手足を鮮やかな色に塗装していました。
土曜日の朝には、すべての製品を売るために、手押し車に乗せられて町に持っていかれました。
その町でのほとんどの人は人形関係の仕事をしていました。
工場での仕事に加え、家での産業も栄えていました。
小道を通って、アパートの窓を見てみると、芸術家やペインターの多くを見ることができます。
女性や女の子は人形の長く、うねっている髪を形づけるために技術を磨き、仕事としていました。
髪型は重要で、多くの子供の労働者は、工場がその年の流行として選んだ髪型にしていました。
人々はその髪型を見ることによって子供がどの工場で働いているか判断することができました。
人形が組み立てられ、ニスを塗られ、塗装され、髪型がセットされると、家内工業で衣装を着させられ、箱に詰められました。
ある家族は輝かしい靴を作りました。
ある家族は優美なドレスを縫いました。
ある場所で箱がのり付けされ、別の場所で人形は青いリボンで包まれ、箱詰めされました。
箱は鉄の薄板に沿って大きいかごに入れられ、そのかごは配達員の元に行くのです。
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ワールドドールをどうぞよろしくお願いいたします♪
追伸
最近、祖父が他界し、そのお通夜に参加するため、久しぶりに小学校まで住んでいた実家に行ってきました。
3世帯が住んでいる豪邸なんですが、
僕が住んでいた頃もそうなんですが、数年前までずっと、1階はガレージで車が3台くらい停めれるスペースにがあって、
その隣は20畳以上ある広い倉庫があったのですが、高齢の祖父母が2階で生活するのは困難になり、
祖父母が生活できるように、1階を大改装したみたいです。
外観のイメージはだいぶ変わったし、親も住んでいないので、もう実家ではなく、
親戚の家みたいな感じなんですが、久しぶりに行って思ったのが、
この家に、両親が離婚するまで6年間住んでいたのが信じられなかったです(笑)
晩年の祖父は不甲斐なく頼りない僕につらく当たってきて、嫌だったんですが、
祖父の遺体を観て、いろんな思い出がこみ上げてきて、悲しくなって、涙が浮かんだのですが、
ぐっと堪えました。
親が離婚するまでは、何でも買ってくれて、やさしいおじいちゃんだったんですが、
年が経つにつれて、関係は悪化していきました。
祖父も、何もないところから、若くから自立して、
親方としてそれなりに稼いで、豪邸を建てるための土地を買い、佳山家の基盤を築き、子どもちゃんと育て上げたので、
とても有能な人だったと思います。
遺体の顔を観たら、頭もハゲてないし、黒髪も残ってて、鼻も高いし、男前だったんだな、と思いました。
遺体の近くに僕ら姉兄弟と従兄弟が子どものころに祖父母と写真スタジオで撮影した写真が置いてあって、
どこからみても、ちょっといいところの子ども達とその子ども達に囲まれて幸せそうな若い祖父母でした。
この時点では、誰も、僕ら姉兄弟が、その数年後に両親の離婚によって、極貧の生活を強いられるとは、
想像もできません。
裕福な家庭で育った従兄弟と、その小さな子ども達を観て、いろいろと考えさせられました。
同じ血筋で、同じ祖父母、父親も、社長と専務みたいな家族経営で、
似たような環境から始まったのに、こうも結果が異なるのか、と思ってしまう。
本当に、僕ら姉兄弟は、母親、もっと遡って、その先祖のカルマを背負っているとしか思えなかったです。
もう過去は変えれないし、残りの人生生きて行くしかないので、僕は今よりも心を律して、ビジネスに励もうと思います。
結局、今の世の中、仕事を頑張るしか、道はないし、一番効率がいいということを最近、気づきました。