東京練馬の実家の近所に夫婦で商っている小さな蕎麦屋がある。
開店して三十数年になるがいままで一度も行ったことがなかった。
今年一月帰国した際に、介護施設にいる母親が元気なときにこの蕎麦屋に行っていたと聞いて、弟と行ってみた。めったに外食をなどしたことがない母親だが、ささやかな楽しみだったのだろう。何だか母親のひみつを垣間見た気がした。
ガラス戸を開けると、店のおかみさんが「ウチはお蕎麦しかないのですよ」と遠慮がちに声を掛けてきた。
蕎麦屋に来て、ハンバーグ定食が出たらたまらない。蕎麦さえ出ればよい。
この蕎麦屋、主人が出前でバイクに乗っているのは何度か見かけたことはあるが、店に客が入っているのをほとんど看たことがない。
先ずは板ワサに冷酒で一杯。酒は旨いし、蒲鉾も厚めに切っており第一印象は良心的。弟がここの主人は神戸淡路大震災のときも、今度の東北大震災でもボランテイアで炊き出しに行っていると話すので、生憎、主人はいなかったが、おかみさんに話を聞いてみた。「ウチのはね、お店も繁盛していなくて、生活は苦しいのに、そういう時はすぐ出かけるんですよ」と、控えめに話をするのを聞いて好感をもった。
四合ほど酒を呑み、仕上げに盛蕎麦をたのんだ。旨いではないか。昔から蕎麦好きで、神田の「藪」、上野の「更科」と食べ歩いたが、味に遜色なし。
先月、帰国最後の日の前日の夕にこの蕎麦屋「いさ美」に弟と再度行った。
前回同様、板ワサで一杯。しばらく呑んで、主人と話をしてみた。この主人、野球好きで、東京都を代表する女子ソフトボールチームの監督をしているとのこと。商売そっちのけで、チームの練習、試合に飛び回っている。実力の差で絶対勝てそうも無い相手と試合をして、采配がうまくいって勝てたときの嬉しさを満面に笑みを浮かべて興奮気味に話をしてくれた。話しているうちに、その試合のことが目に浮かんでくるようであった。だが、現在選手の表情が冴えないそうだ。
日本の女子ソフトボールは北京五輪で金メダルを獲得している。しかし、残念なことに、ロンドン大会からソフトボールは種目からなくなってしまった。次の2016年リオデジャネイロ大会での復帰もならなかたことで、ソフトボールをやる大きな目標を失ってしまったようだ。いつの日か、女子ソフトボールがオリンピックに復帰してほしいと願う。
そう、仕上げに盛蕎麦を頼んだ。池波正太郎流に七味を蕎麦の上にかけて食べる。こうすると、七味の風味を損なわない。「旨い」と大声で言うと、主人は嬉しそうに何度も頭を下げていた。
世渡り下手で義侠心のある蕎麦屋に来年も行く事を楽しみにしている。
