何年ぶりかの更新。やる気が無いわけではなく、これを書くのは結構大変なのだが、またもや友人にせかされ、そうして周囲の人たちの何人かにせかされ、まるで作家のようである。だから書くというわけでもないのだが、書けることは書いておこうと思った。
 先日、その友人が大学の学生に何故大学に来たかを聞いたら、「遊びにきた」と話した学生がいて、唖然としたとの事で、これをめぐってちょいと議論になった。まぁ、結局のところは「大学とは何か」というか「学問とは何か」なのだが、私の立場は「学生は責められないだろう」という立場である。大体、大学に行けなんて誰から言われたのか知らないが、行けといわれて行ったが「何になるのか」当人もわからず、気付いたら就職活動である。
 振り返ってみると、私は親にあるときを過ぎてから「勉強しろ」といわれたことが無い。小学生の頃はいわれていたような気がするが、ある時点から親が私の才能に気付いたのだろう、「勉強しろ」といわれた記憶が無いのだ。たぶん親はありがたいことに勉強の才能が無い私にあきらめていたのだろう。感謝である。
そこで言うと、今の学生は大体が「大学に行っておけば良いことがある」と思わされているし、親もそう考えているのでそうすることが世の中で苦労しないと思っていると思う。ただ、その「勉強しろ」という親は全く勉強しない。「勉強は大事だ」と言っておきながら、親の勉強する姿は見ない。勉強しないと困るぞ、と言っても勉強していない親が言っても説得力は無いし、その親もそんなに勉強したのだろうかと思う。
 大学を出ていない友人にも何人か会うのだが、その人が困っているかと言うとさして困っているようにも見えないし、そこそこの生活はしている。しかし、その人たちは自分の息子・娘に大学へ行けというのだろうか?それは知らない。
 いつのころからか、日本には「大学へ行っていないと困るぞ」という脅迫めいた信念に取り付かれているように思う。大学へ行って思ったのだが、学問の道はそう簡単ではない。4年でできることなんて限られているし、それをちょっと学んだだけで「学問」を語るのは、学問に失礼だろう。敬意が無いと思う。学問なんてものは偉くもないし、知っていたからなんだと言うことでもない。ただ、その学問が経済や社会に利用されているだけの話で、変に偉くなってしまったのである。知識があるやつはすごいと思わされているのだ。
 それはとても怪しいことだし、疑ったほうがいい。そうして、そのように人間を見てしまう人は、たいていの場合謙虚さに欠ける。人の誇りは知識の量ではなく、その生き方、学び方にあると思う。恥を恥と思い、わからないことはわからないと聞く。本当の学問はこの姿勢を学ぶことにあると思うのだが。でも、私もまだまだ修業中の身なのでたいしたことは言えないが・・。というわけでこれを終える。再び書くのはいつか?