最近亡くなった方で「藤沢秀行」という碁打ちがいる。私は碁はやらないので、まったく知らなかったが、朝日新聞の天声人語にその人のことが書いてあって、なにやら興味深そうだからその人の書いた本をさらっと読み、なるほどと思ったので、パソコンに向かっている。私が興味を持ったのは、この方の破天荒ぶりで、酒と博打が大好きだというこの方は、「酒というものは飲む以上、わけがわからなくなるまで飲まなくてはいけない」というのが、モットーらしく、「沖縄では、酔ってタクシーに乗って警察に連れて行かれ、朝、目が覚めたら留置場だった」(藤沢秀行『勝負と芸』70頁)ということがあり、「TBSの『すばらしき仲間』という番組に出演したときは、途中で私が消えてしまい」(藤沢秀行『勝負と芸』70‐71頁)ということがあったという。博打では借金をつくってその額が億を超えたともいう。
その方が(中にはこれを読んだとたん、くだらないと思った方もいるのではないか?)『勝負と芸』(岩波新書)で次のようなことを書いていた。「現在の碁界は、勝負があまりにも重視されていて、大切なものが忘れられているような気がする。どんな碁を打っても、最終的に勝てばいいんだという風潮が強い。果たしてそれでいいのだろうか。もちろん第一手から始まって最後の一手まで、すべてが芸である。私は最後でしくじることが多いが、だからというのではなく、最終的に勝てばとか、どんなことをしても勝てばいいでは、後世の物笑いになるだけである」(藤沢秀行『勝負と芸』165頁)。
碁と社会のありようは全くといって関係はない(と思う)が、最近の私たちの社会のありようを批判されているような、言っているような文章である。「現在の碁界」、これを「企業」に置き換えてもよいし、あるいは「社会」、「大学」、「現場」と置き換えられるのかもしれない。とりわけ「資本主義」といわれている社会では「結果」がすべてになってしまい、結局、儲けたものがもてはやされてしまい、最下層はいつまでたっても日の目を見ないのでは、やりきれまい。むろん、藤沢さんが言うには、最終的に勝てば「結果がよければ」それでよい、というのでは、どんなに大きくなろうとも(儲けようとも)、「後世の笑いものになるだけ」ということだろうか。
ところで、人生はある意味「芸」といっていいのかもしれない(?)。以前、誰かがソーシャルワークは学問かアート(芸)かという論争があったということを言っていた。もちろん、社会福祉も人の人生に携わるのだからある意味「芸」という事を、ものを、知っていなくては務まらないということでもあるのだろうか。社会福祉は、とりわけ福祉は決まりきった倫理を振りかざすものではなく、色々な人生に付き合いながら、人生を学んでいくものなのかも知れない。ただし、色々な人生の選択を狭められるという事が、出てきたときに初めて「社会」というものが現れ出てくると思う。だから、私たちはいつまでたっても勉強する必要があるのかもしれない。「プロとは、かつぎきれない荷物を背負って曠野をとことこ行く人種である。努力を持続させる才能が要求されるし、倒れるまで勉強しなくてはならない。苦しいものである」(藤沢秀行『勝負と芸』168頁)。
各あるべし、と思いたいが、私にはまだまだなので、そのような気持ちも大切ですねということで終わりにしておこう。
その方が(中にはこれを読んだとたん、くだらないと思った方もいるのではないか?)『勝負と芸』(岩波新書)で次のようなことを書いていた。「現在の碁界は、勝負があまりにも重視されていて、大切なものが忘れられているような気がする。どんな碁を打っても、最終的に勝てばいいんだという風潮が強い。果たしてそれでいいのだろうか。もちろん第一手から始まって最後の一手まで、すべてが芸である。私は最後でしくじることが多いが、だからというのではなく、最終的に勝てばとか、どんなことをしても勝てばいいでは、後世の物笑いになるだけである」(藤沢秀行『勝負と芸』165頁)。
碁と社会のありようは全くといって関係はない(と思う)が、最近の私たちの社会のありようを批判されているような、言っているような文章である。「現在の碁界」、これを「企業」に置き換えてもよいし、あるいは「社会」、「大学」、「現場」と置き換えられるのかもしれない。とりわけ「資本主義」といわれている社会では「結果」がすべてになってしまい、結局、儲けたものがもてはやされてしまい、最下層はいつまでたっても日の目を見ないのでは、やりきれまい。むろん、藤沢さんが言うには、最終的に勝てば「結果がよければ」それでよい、というのでは、どんなに大きくなろうとも(儲けようとも)、「後世の笑いものになるだけ」ということだろうか。
ところで、人生はある意味「芸」といっていいのかもしれない(?)。以前、誰かがソーシャルワークは学問かアート(芸)かという論争があったということを言っていた。もちろん、社会福祉も人の人生に携わるのだからある意味「芸」という事を、ものを、知っていなくては務まらないということでもあるのだろうか。社会福祉は、とりわけ福祉は決まりきった倫理を振りかざすものではなく、色々な人生に付き合いながら、人生を学んでいくものなのかも知れない。ただし、色々な人生の選択を狭められるという事が、出てきたときに初めて「社会」というものが現れ出てくると思う。だから、私たちはいつまでたっても勉強する必要があるのかもしれない。「プロとは、かつぎきれない荷物を背負って曠野をとことこ行く人種である。努力を持続させる才能が要求されるし、倒れるまで勉強しなくてはならない。苦しいものである」(藤沢秀行『勝負と芸』168頁)。
各あるべし、と思いたいが、私にはまだまだなので、そのような気持ちも大切ですねということで終わりにしておこう。