世の中にはやっぱりお金より大事なものはたくさんあって、買うことができないものはたくさんある。それを私たちは大切にしたいし、大切にすべきものとして考えてはいる、と思う。でも、お金が無くて生活がうまくままならないとか、お金がない人にとっては、お金が「全て」になってしまうことは否定できないし、否定すべきでもないはずだ。「働く」事を通じて(労働力を売るともいえる)、金銭を得て、生活をすることが、生活を営むことができている人にとっては、「お金がすべて」という価値は最上のものではないかもしれないが、身体がうまく動かないとか、頭がうまく働かない等、何らかの理由で労働力を売れなくて、提供できなくて、労働市場から投げ出されてしまうような人たちの中で、生活がうまく成り立たないとすれば、その人にとっては是が非でもお金が欲しいだろう。だから、社会保障という制度がここから出てくるであろうし、でも、社会保障だけではその人の「可能性」は保障ができないから、その人にも「労働力」を提供してもらおうということで、「就労支援」なるものが出てくるのではないかと思う。
 そうして就労支援なるものは「働く」、「働けない」で人間的価値が下がってしまうような社会的な雰囲気の中で、働けないことを規程することなく、労働市場に参加してもらう、そうして同じ人間なんだということを言いたくて、働くことを手段として、うまく身体が動かない人や、頭がうまく働かない人も同じように労働力を提供できるはずだ、区別すんなよという働きかけや営みのことであるような気がする。
 そういう意味で言うと、その人が最賃以上だとか以下だとか、それは「どこに最低賃金を置くか」で変わってくることなのだが、、杉田さんのコメントで言うとすると、その人を労働市場という中で社会参加できるはずなのに、福祉事業所で終わらせよいの?ということにつながってくると思う。
 一方で、私たちの社会は誰かを優遇したり、どこかで区別している。だから、一緒くたにみな「平等」とはならないし、なれない。ただ、先にも述べたが、身体がうまく働かない、とか頭がうまく働かない人たちが、どこか私たちとは別の世界に位置してしまうことが問題であって、それが社会的排除と呼ばれるものなのではないかと思うし、「障がい」と呼ばれてしまうものに限定されてしまうことが問題なんだと思う。
 本来、私たちは生活できればよく、お金よりも大切なものが追求できるならば、追及できたほうがよいし、働けるなら働いたほうがよい。ただ、働く場所もないし、生活もうまく保障されないとなると、行きつく先は、そして就労支援はここから逃れられないし、逃げるべき問題ではない「分配」の問題に突き当たっていくことになる。無論、これは財の分配だけではなく、労働力の分配、仕事の分配(ワークシェア)、そして、究極的には自由の分配(立岩、ロールズ等)の問題になってくる。
 強く私は思うのだが、就労支援は単純に訓練すればとか、職を探せばとか、技術論的な問題で終わってはいけないし、終わらせないほうがよい。つまりは、私たちの社会のあり方がどのようなものであって、どのような方向に向かっているかを考えられるだけ考えたほうがいいということだ。
 問題は複雑でもあると思うが、私たちはその複雑な中で生きているのだから、それを単純化しないほうがいいし、するべきでもない。もっと単純に考えられる事ならば問題は単純化されて解決されているはずだし、単純化されないから私たちは現時点の位置にいるのだと思う。この問題を突き詰めていくには、今日、明日の事にはならないので、勝手だがしばらく時間を置くことにしたい。また、感じたこと、考えることは出てくると思うが、これとは直接的につながっていることではないかもしれないが、遠くではつながっていることを今度、書くことにしたい。