利用スタッフのFです。
今思い返して、義務教育で学んだ大切なこととは何か考えてみました。
情操教育最高!子どもは感性の宝箱的な発想をする方は、
学校を「同世代の集団生活で育まれた思い出の場」であることが素敵!
と自身の美化された記憶を全国の少年少女と共有したいでもと思っている気がします。。
勉強に追い立てられるのが諸悪の根源であるとでも言いたいのでしょうか?
違います!(断言)
たとえば、この世の詐欺まがいの医療や似非科学の大半は義務教育で学んだことで簡単に否定できるんです。
似非科学者が常に言う言葉があります。
「科学は完璧じゃない、今私が唱える説がいずれ証明される時が必ず来る」と。
それは正しい。市井の研究者が定説を覆したことは珍しくありません。
でも詐欺師(本人は真実と信じていたとしても)が、その定説を覆した人たちと同等の質を保っている保証はないのです。
現代まで多くの科学者、医学者が不断の努力を重ねて築いてきたものは、けっして“言い出しっぺ”が言ったことが無条件に“真実”と認定されてきたのではありません。
同じく研究する者が、その説が正しいかどうか検証した結果なんです。
理科で実験の授業がありました。ただ学ぶだけなら、教科書に載っている実験結果を覚えるだけでいいんですが、でも実験をしました。
知識だけでなく実体験を経ることで興味を持たせる意味もありますが、実験をすること自体に意味があります。
私たちが授業で行う実験とは、(教科書に書かれた)先人がやったことを実際にやってみて、それが正しいかどうか検証するということなんです。
教科書と違った結果が出たら「間違っている」んじゃないんです。なぜ違った結果が出たかが学びの機会なんです。
そもそも実験とは再現できることが大事で、それが科学そのものと言っていいんです。
偶然で生まれたものであっても、条件をいくつか設定して、そのひとつひとつ、あるいはそれらの組み合わせを確かめ、再現できなければその条件を削除していくのです。
逆に言うと、ある一定の条件を示し、それで再現できないものは科学ではありません。
似非科学とは条件が明確でなく、再現できないものなんです。
有名なところでは「水に美しい言葉をかけて凍らせると美しい結晶が作られ、汚い言葉をかければ汚い結晶になる」というものがありました。
これの何が胡散臭いと言って、凍らせる条件が「かける言葉の種類」以外を同じものにしたということが明示されてなかったんですよ。
二種類の言葉をかけた時に、それぞれ温度の下げ方や、湿度、水の純度などの環境を同じにしないと実験とはけっして言えないのです。
理科の実験で結果が違ったなら、教科書に書かれた条件に揃えられなかったということ。
もしかしたら、試料の量、湿度、温度、混合するタイミング等のどれかが違っていた可能性があります。
また、長い長い生物学の歴史の中で、言葉(音)を聞くには聴覚器官、言葉を判別するには脳、母体に変化をもたらすのは交感神経、副交感神経、ホルモンが必要なことが明らかになっています。
水には聴覚も脳神経もホルモン分泌器官もありません。
「水は生命の源だから」のひと言で「そんなことがあるのかもしれない」と考えるのは、人類の歴史への冒涜だと思っています。
ああ、まだまだ言いたいことがあります!