「日本語の特性、日本人知らず」 | 就労継続支援A型事業所 わーくぷらすin大阪

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利用スタッフのFです。

前回のわたくし的言語考察の続きです。

 

日本語の特性を日本人ゆえに勘違いしていることがあります。

特性というよりは、日本語で表現できるものと言った方がいいかな?

 

日本語が持つリズムである七五調でもっとも有名なものは、

短歌(五七五七七)ですね。

…今ではポピュラーではありませんが、和歌には短歌に対し長歌(五七×over3)がありました。

さらに俳句(五七五)、そして俳句から季語を除いた川柳があります。

 

漢詩に対して倭の歌(倭歌/和歌)が生まれたのは、ロックンロールが日本に輸入されて当初は言語で歌われていたものが、自分たちの言葉で歌いたくなったようなものと同じだと思えばいいですね。

実際に昭和3、40年代では和製ロックなんて呼ばれていたくらいです。

 

和歌、俳句共通して語数の制限を設けて発展してきました。

 

和語が元々五七に馴染みやすかったのか、それとも和歌を詠む層が当時の知識層だったので、漢語の訳や、当時新しく生まれた概念を五七に揃えたのか、

おそらく両方でしょう。

 

万葉の時代の貴族が競って恋や世の移ろいを和歌に乗せて、現代まで当時の雅な文化を伝えてくれて、

俳諧では芭蕉が江戸時代から、

俳句を生み出した子規が明治時代の空気を残してくれました。

 

単純に受け取ると日本は昔から精神的に高い文化を誇っていた、すげえぜ日本!となってしまいます。

おおよその日本人がそう感じているかも?

 

でも言いようによっては和歌は漢詩から派生したともいえるので、当時の唐の先進性を忘れているし、漢詩も五言、七言という文字制限があるので、特有とも言い切れませんし。

 

またこれは「昔の芸人は面白かった」と同じで、凡庸な歌が淘汰され優れたものが残ったという事実も忘れています。

 

「日本古来「」日本特有」というスペシャルな響きが好きで思考停止になっているんですね。

 

逆に俳句や短歌を学べば高貴な精神が宿るか?と問われれば、わからないと答えることしかできません。

その人が詠んだ一句を、選者が後世に残したいと考えるとは限らないから。

はっきり言ったら、今に名が残る詠み人と肩を並べるのは限りなく不可能な話です。

 

ましてや同じ列島に生まれただけで、時代も違うのに同レベルの精神性を持っているなんてのは勘違いも甚だしい。

 

(そもそも現代日本に住む自分と共有などしていない)日本古来の文化の素晴らしさではなく、日本に表現機会を持った特定の人物に特有のセンスと選び残した選者特有のセンスの相乗効果だったということ。

これが第一の勘違い

 

さて次に話が変わったようで変わってないことを。

 

僕は和歌の文字数は、ラップの韻を踏むのと同種の表現だと思っています。

韻を踏むのは、ラップに限らず、西洋の詩、漢詩にもある珍しくない表現法なので、制限という意味では同じではないでしょうか?

 

音の種類や音の数を揃えるのはレギュレーションだと考えればより分かりやすいかも?

オートバイレースの最高峰MotoGPしかり、カーレースのF-1しかり、厳密なレギュレーション=機会の平等化が先鋭化の役割を果たすという話です。

 

普通、制限を設けるよりも自由に表現する方がより伝えたいことをが伝わる可能性が高くなり、芸術の方向性が拡がるんじゃないかと考えませんか?

 

 

次回予告「感性を説明する」