犬はその日から夕方になると何度となく家を訪れた。ただし毎日ではなく、アシタバが元に戻るタイミングを狙って現れた。その証拠に、犬が去った後は決まって若葉が一枚残らず噛み千切られていた。

僕は犬を柴犬と呼んだ。くりくりした丸っこい眼と、頭から飛び出すように立った耳が動物図鑑に載っていた柴犬とそっくりだったからだ。今思い返してみると、あれは明らかに雑種だったのだが、当時の僕に犬の種類をまともに判別する眼などなかった。

名前を付けなかったのは、真っ赤な首輪が巻かれていたからだった。飼い犬ということは既に名前があるわけで、二つも名前があったら困るだろうな、と考えたのだ。

柴犬は外から眺める僕を他所にもそもそと若葉をほおばっていた。時折、眼でこちらを見る以外には吠えることも無く、尻尾を振ることも無かった。その代わり、若葉を食べ終えるとアシタバに「お座り」をして帰っていった。僕はそれで満足だった。折角育てたのに誰も相手にされなかったアシタバが初めて他人の役に立った気がして、嬉しかった。

ある日、僕は帰っていく柴犬の後を付いていった。定期的に訪れる柴犬はどこの家の飼い犬なのか確かめたくなったのだ。

柴犬のスピードはこちらがゲームをしながら追っても余裕で追いつける程遅かった。加えて、コンクリートで舗装された平坦な道しか歩かないので猫が通るような裏道に悩まされることもなかった。いつの間にか、空が暗くなりかけていた。墨を流し込んだような黒い雲がずんずん迫っていた。怖さを紛らわせるために思わず鼻歌を口ずさんでいた。

唐突に柴犬がとある家の前で止まった。ここか、と僕が身構えると、柴犬は門を鼻で押し開けて庭の中に入った。姿が消えたことを確認して、門の前まで忍び寄った。

違和感を覚えたのはその時だった。

あれ、ここって本当に犬が住んでいるの?

最初、僕の脳裏にそんな疑問が過ぎった。その家には犬小屋はあった。しかし、汚れていなかった。生き物が住んでいる跡が見当たらなかった。
僕は家の全体を見渡した。どこにでもありそうな一戸建て。建てられて間もないのか、壁の色がほとんど褪せていなかった。その代わり、無機質だった。人が住んでいる雰囲気は無く、陰湿な影にそこだけが覆われていた。
不意に背筋に冷たいものが走って後ずさった。喉に後悔がこみ上げてくる。
ここに来てはいけなかった。こんな所に行こうと思ったのが間違いだった。僕は即座に踵を返して立ち去ろうとした。

「こんにちは」

やわらかい声が聞こえて振り返ると、庭に女の人が口元に笑みを浮かべて立っていた。僕は驚くと共に、何故か蛇に睨まれた蛙のように空恐ろしくなった。

何だろう、この人。どこかがすごく変だ。

不意にその原因に思い当たった。この人、本当は笑ってないんだ

「こ、こんにちは」
僕はおっかなびっくりでどうにか返事をした。つい先程までこの家は不吉だと考えていたことが見透かされているようで恥ずかしかった。

「どうしたの?この家が気になった?」

女の人は至って穏やかな口調で話しかけた。僕は適当に返事をしながら女の人を盗み見た。

喪服のように黒い衣服から覗く腕は日が沈みかけた今ですらはっきりと分かる程白くほっそりとしている。外見は近所に住む大学生のお姉さんと同じくらい若いのに、だぶだぶのセーターと長いスカートというおばあさんのような服装のせいで却って滑稽に見えた。

「きみ、どこの家の子?何か用があって来たの?」

自分のことを聞かれて僕は戸惑った。果たして正直に答えていいんだろうか。

急にここから逃げ出したくなった。もし住所を教えれば何かの折に僕の家に来るかもしれない。それがすごく恐ろしいことのように思えた。もう耐えられない。

「何でもないです、すいません」

柴犬がどこにいたのか振り返る余裕はなかった。一目散に逃げ帰って、もしあの女の人が家まで来たらどうしよう、と布団の中に潜って震えていた。

思えば、あの日から変わっていたのかもしれない。僕が柴犬の飼い主から逃げ帰った後も、柴犬は普段と変わらず家の庭に現れた。既に柴犬は僕にとって一つの日常となっていた。それが除々に崩れていることに僕はしばらく気付けずにいた。

学校が冬休みに入った頃、柴犬が家に来る間隔が少しずつ開き始めた。始めは寒くなったから行くのが面倒くさくなっただけだろうと高を括っていた、というよりも様子を見に行って飼い主にばったり出くわしてしまうことが怖かった。しかし、十日以上柴犬の姿を見かけなくなってから流石に心配になって、母にあの人について聞いた。

「ああ、藤田さんのことね」

母はつぶやくように言って、ふと顔をしかめた。機嫌を損ねるようなことを話してしまったのかと身構えると、ここだけの話だけどね、と周りに誰もいないのに小声になった。

「あまりあの家に近づいちゃ駄目。藤田さん、一人で住んでて体が弱いからあまり外に出ない人なんだけど、何ていうか…とにかく変な人なのよ」

母の只ならぬ様子に、僕は何がどう「変な人」なのかさらに問い詰めようとしたが、子供は知らなくていいの、と一蹴された。

結局、不安だけが残り僕は再び誰からも相手にされなくなったアシタバを眺めながら悶々と考え込む日が続いた。柴犬は何故来なくなってしまったのだろう。アシタバの味に飽きてしまったのか。いや、それだけならまだいい。あの飼い主が柴犬に何かしているのではないか。現に母は飼い主を変な人と言ったし、僕自身柴犬の飼い主を恐れていることは事実なのだ。でも、もしかしたらただ行きたくなくなっただけかもしれないし――。

堂々巡りだった。今動かなければ何も分からない。僕は苦渋の決断を迫られた。

空が黄昏れてうっすらと星が見え始めた頃、僕はビニール袋片手に再び柴犬の家へ歩いていた。目的地が近づくに連れて視界に映る白い息が広がっていく。

ほんの少しだ。これを置いたらすぐ帰ればいい。

内心で自分にそう言い聞かせるものの、冷たい風が吹く度に不安は無限に膨らんでいく。足が重くなる。当然だろう。いつ藤田さんという柴犬の飼い主に再び出くわしてもおかしくないのだから。

ビニール袋にはアシタバから摘んだ大量の若葉が詰め込まれていた。用途は一つしかない。柴犬が果たして若葉を食べるどうか確かめるためだ。柴犬はあれからいくら待っても来なかった。そのため、ついに僕が出向かざるを得なかったのだ。

家の前に着くと用心深く辺りを見回した。幸い、人の気配はなかった。それでも油断は禁物だ。

僕は恐る恐る門を抜けて柴犬の小屋に近づいた。中で大きなシルエットが背を向けて横たわっている様子が見える。思わず駆け出そうとして、寸前で物陰に隠れた。藤田さんが玄関から突然出てきたのだ。夕方は餌をあげる時間だった、と心の中で舌打ちする。

ところが藤田さんは柴犬に餌を与えるどころが一切目もくれずに出かけてしまった。その様子に諦めたような視線を向けた柴犬がいた。

藤田さんの姿が見えなくなるのを確認して真っ先の柴犬の元へ駆け寄った。
久しぶりに見る柴犬は別の犬としか思えない程痩せていた。あの稲穂のような黄金色の体毛とのんびりした態度は全く変わっていなかっただけに、それがなおさら目に付いた。この時点で僕は確信した。
柴犬はこれまでずっと放っておかれていたのだ。誰にも気づかれることなく。鎖で繋がれていないおかげで生き延びていたのだ。
不意に喉元に熱いものがこみ上がってきた。一瞬それが何なのか分からず混乱して、すぐに自分がいつになく怒っていることに気付いた。大人があからさまにひどいことをしている姿を目の当たりにするのは初めてだった。
この理不尽からどうすれば柴犬を救えるだろう。家に帰るまでの間、そのことばかりが頭を占めていた。

次の日から若葉だけではなく犬が食べられそうな食料をこっそり持っていっては与えることが僕の日課となった。その一方で、自然と柴犬を救う計画が膨らんでいた。

ある深夜、親が寝静まった頃を見計らって自室の窓から家を抜け出した。その時無謀にもパジャマの上にジャンパーしか羽織っていなかった。案の定、冬の寒空にさらされて数歩でくしゃみをした。
僕は街灯によって作られた明かりに沿って歩いた。夕暮れよりも濃く深い暗闇が今にも自分を飲み込もうとしているようで怖かった。凍りついた風が上着の間を縫って肌をちくちく刺した。しかし、引き返そうとは思わなかった。むしろ、そのぞくぞくした感触に病み付きになっていた。

今こんな遅い時間に外を歩いている人なんて誰もいないだろう。僕だけが起きているんだ。

空全体にちりばめられた星が僕を祝福するように一斉にまたたく。ビニール袋の中身がリズムを刻んでガサガサ揺れる。
まるで欲しいものを独り占めできたように気分が高揚していた。いっそこの時間がずっと続いてしまえばいいのに。いつしか本気でそう願っていた。

柴犬の家に着くと、まっすぐ小屋に向かった。柴犬は足音に気付くとだるそうに顔を上げた。普段夕方に訪れる来客が深夜に現れても全く驚く素振りを見せず、差し出された若葉を齧った。相変わらず動作は遅かった。

ジャンパーのポケットに忍ばせていたリードを柴犬の首輪に留めた。僕が立てた計画は至って単純だった。柴犬を外へ逃がすことが出来れば僕の家に引き取る。それが無理なら断られることを覚悟で柴犬のことを親に訴える。行き当たりばったりだと言われても仕方がない。

しかし、次第に痩せ細る柴犬をこのまま放っておくわけにはいかなかった。誰も見向きもしない柴犬を助けられるのは僕しかいないんだ、と一種の使命感に突き動かされていた。

柴犬を移動させようとリードを引いた。途端に強い抵抗が両腕に襲い掛かり、巨大な岩のように微動だにしない。初めて柴犬が重かったことを知った。

かじかんだ手に力が入らずぶるぶると震える。焦りだけが溜まって泣き出したい衝動に駆られる。
ふと柴犬が珍しく顔を上げて僕を見つめていた。

どうしたの、と声をかけても柴犬はこちらを向いたままだった。表情を確かめようとしたものの、暗くてよく分からない。しかし見つめられている内に自分が怒られているような気分になって、たじろいだ。おまえを助けようと思ってるのに。何でそんな怖い目で見るんだよ。僕は正しいことをしているのに。とうとう居たたまれなくなって、留めていたリードを外して放り出してしまった。柴犬は少しも動じないまま、元の体勢に戻った。結局、残りの若葉を小屋の隣に置いて家に帰るしかなかった。柴犬と会ったのはそれが最後だった。

翌日、深夜をうろついたのが祟ったのか、高熱を出して寝込んだ。母があまり外にも出てないのにどこからうつされたのかしら、とぼやくのが聞こえた。

一週間おかゆと苦い粉薬に悩まされてようやく熱が引いた頃、柴犬を訪ねた。すると、小屋だけが残っていた。柴犬は僕の前から突然いなくなってしまった。

体の芯からすーっと体温が引いていった。初めて思い知らされた。僕の助けなど借りなくても柴犬は自分で動いた。勝手にここを去っていくことを決めた。僕のことは一切お構いなしで。
僕はうぬぼれていただけだった。自分は何も出来ないちっぽけな子供であることに、柴犬が消えてからようやく気付いたのだ。
自分が途方に暮れて立ち尽くしていることが、アシタバの若葉を握っていることが、どうにもくやしくてたまらなかった。僕は若葉をその場にぶちまけた。空を舞った若葉から急に緑が消えてしまったような気がした。

柴犬がいなくなると、アシタバは再び熱帯植物の姿を復活させた。しかし自分を逞しく見せることに欲張りすぎたせいか、早々に寿命が来て枯れてしまった。これで庭は元の殺風景な場所に戻った。それでも、僕はアシタバと柴犬のことを忘れることができなかった。


そして今日も僕は母に急かされて居間を慌ただしく動き回っている。このところ大学受験が近いせいか母の神経質になっている。ぴりぴりすべきは僕の方なのだが。
早々と支度を終えて玄関を飛び出す。ふと雑草が生い茂る庭に一回り大きい植物に目を留める。アシタバだ。あの時のようにいつのまにか生えていた。
思わず足を止めて育ちかけのアシタバを眺める。
あれから柴犬がどこへ行ってしまったのか、何故急にいなくなってしまったのか、今となっては分からない。ただ何度も思い返す内に、柴犬が僕のことを何も見ていないわけではなかったんじゃないか、と考えるようになった。あの夜、不意に僕を見つめた顔はどんな表情をしていたのだろう。それは幼かった僕に対する戒めの顔ではないか。自分の立場をわきまえろというメッセージではなかったか。
確証はない。しかしそう思うことでようやく折り合いをつけられた。
生えて間もない小さな若葉を齧ってみる。相変わらず苦い。その代わり、吐き出すことはない。十数年が経つ内に僕もいつの間にか苦味を我慢するようになってしまったようだ。
舌に残る味を飲み込んで僕は普段通り学校へ向かう。帰りにまた誰かがアシタバを齧ってくれることを期待しながら。