(ZAKZAK)
 
【ここがヘンだよ!日本】感情的な言葉狩りが横行しただけのLGBT論争 「生産性のある論議」の皆無はいかがなものか
 
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 このように、LGBTに関する論争は、歴史ある一冊の雑誌を、事実上廃刊にまで追い込んだわけだ。

 では、この間、LGBTと社会との関係のあり方に関して「生産性のある議論」がなされたかというと、そんなことは決してない。「差別があった、なかった」という押し問答や、感情的な言葉狩りが横行しただけで、具体的な制度提案につながるような議論にはまったく発展しなかった。

 そこで、そもそも杉田氏の論文の何が問題だったか簡単に考えてみよう。

 杉田氏の認識は「すべての国民は、結婚して、家族を持ち、国の発展のために、子供産んで増やすべし」とする狭い見識から導かれていると思える。こうした家族観を持つ保守層の識者は案外多いのだが、このような認識は決して日本古来の家族のあり方ではない。
 
--- 上記、本論部分の一部をZAKZAKから引用     -------
 
杉田水脈議員の論文のポイント(要点・主題)は政府の補助金の使途、補助政策のあり方について述べたものである。
 
杉田水脈議員の「生産性」発言を批判する全員は、いままでの日本の「少子化問題」「少子化対策が必要」という社会で共有されている意識?を忘れている。 または意図的に触れない。
社会保障費の問題について議論されるとき、必ず少子化という言葉が出てくる。 それくらい”社会保障費と未来の子ども”は密接に関連している。
 
そして日本は少子化対策担当相までいる。
 
それでいて、「生産性」という言葉だけ切り取って差別だと騒いだり、国会議員を辞めろというのはおかしいではないか! 宇佐美氏も同様である。
 
生産性という言葉は経済では普通に使われる言葉である。差別意識はなくても使われる。いや、厳密にいうと、生産性のある人、ない人というのは労働者の中では使われる。生産性の高い人、低い人でもいいだろう。
 
よく働く人、言われなくてもやるべきことをどんどんテキパキとこなす人、言われた事だけをのんびりする人、言われなければ動かない人、見ていなければサボっている人などがいるとする。 
 
そこに生産性という言葉を使うことはできる。営業での売り上げでも同様だろう。 
 
その視点でいくと、子どもを産むか産まないかの「生産性」は厳然として存在する。
 
そこに人間としての”権利””人権”を持ち込んで”差別だ”と騒いでいるのが今回の騒動である。税金を払うのは国民の義務であるが、それをまた強調して杉田氏を批判している。
 
まるで労働運動ではないか! アメリカのGMなどの労働者の時給が70ドルだかになり、GMは倒産した。 労働組合の賃金と決められた保証額(給与体系)の高さにアメリカの製造業はこぞって中国へ工場を移した。
 
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日本にはホモやレズを差別したり放逐する社会概念はない。
軽く意識はするが、普通に共生できる社会である。
 
政治家が税金の使い道、補助金の使い道や徴税について議論できない社会こそがおかしな社会である。政治家はタブーなき議論ができる状態であるべきである。
 
パチンコの税金はどうなっている? とか、公平な報道というより世論作りのための誘導報道をするマスコミ、新聞の税金や電波は? とか、隣国の反日論文をあたかも正当化するような研究へ高額な補助金を出す仕組みとか、どうして財務省が徴税もするのか?とか、裏経済は?とか、政治家が議論すべき課題は山積みであるはず。
 
何度も書くが、日本には飢え死にする人、飢え死にしそうな本当の危機に瀕している人たちがいる。 娘を風俗に売ったというニュースもあった。
その一方で生活保護費でパチンコをしている人たちもいる。
 
税金の使途には優先順位がある。その議論ができるのは政治家である。
 
杉田水脈議員の発言こそ評価されるべきである。
 
宇佐美氏の

 ”そんな当たり前のことが分からない人が国会議員をしていることは大変残念なことだが、言葉狩りで生産的な議論ができない、わが国のリベラル論壇もいかがなものかと、また感じる。”
 
の文中の国会議員が杉田水脈議員を指しているなら、宇佐美氏こそ杉田議員のタブーに捉われない国会議員の価値がわかっていない。
 
国会議員にとってのタブーとは 
 
核兵器保持の議論、在日特権やパチンコの廃止議論、NHKの民営化やマスコミの偏向報道の批判と罰則規定の適用、 スパイ防止法の制定議論、拉致被害者奪還のための軍事攻撃の使用の議論、巨大宗教組織の政治関与(厳密には憲法違反)についての議論、財務省内部の批判、
 
などなどであろう。 
 
ひと昔前は隣国への侵略や南京虐殺などの有無についての発言もタブーであった。 ***(藤尾正行議員の発言)
タブーに触れるとマスコミと隣国が騒ぎ、野党が騒ぎ、次回の選挙で当選しなくなる。
 
上記の主題をみると、隣国(そして核については戦勝国も)がわからないように裏から日本の政治・マスコミに強く関与していることがわかる。
つまり、日本が独立した自由・公平な社会、国民が富める社会になるのを大きく阻害している原因、要が何であるかがわかる。
 
 
*** 藤尾正行   藤尾正行文部相を罷免した中曽根康弘氏の評価についてはいろいろあるが、隣国による現在までの歴史問題への干渉、首相や天皇陛下の靖国神社への不参拝問題、慰安婦問題、ひいては尖閣諸島への中国の干渉などは中曽根康弘氏のその場しのぎ弱腰外交、風見鶏外交の成果である、とわたしは思っていて、中曽根氏を大して評価していない。 少数派の中曽根氏は首相になりたくて、田中角栄元首相邸を訪ねて平身低頭,ひれ伏してしてお願いした話は当時は有名であった。 ロン・ヤス関係ということで今では評価されているが、当時は”風見鶏”のほうが有名で世間では批判が多くて評価されていなかった。
 
歴史の評価はあとからしかわからない例である。
中曽根氏と藤尾氏(どちらも国会議員であった)のどちらが国益のためになったのか?
 
日本の将来にとってはタブーなき議論が必要である。
日本は根本からの再構築、国のシステムの再構築が必要である。
 
 
https://www.youtube.com/watch?v=g0DJZJ9RBVs   (bruce springsteen - my hometown)
 
 
 
---  参考のため宇佐美氏の主張の全文を下記にZAKZAKより引用  ---
 
【ここがヘンだよ!日本】感情的な言葉狩りが横行しただけのLGBT論争 「生産性のある論議」の皆無はいかがなものか (1/2ページ)
2018.10.15
 
 LGBT(性的少数者)差別に関する論争が活発化している。

 発端は自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌「新潮45」に投稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題した論文だった。この論文の中で、杉田氏はLGBTに関して「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と述べ、各所から「LGBT差別だ」とする批判がなされた。

 こうした批判に対し、新潮45は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という反キャンペーンを展開して、杉田論文を無理に擁護しようとした。だが、結果として新潮社自らが「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と声明を出すような論考が掲載された。これが猛バッシングを受けて、新潮45は休刊に追い込まれた。

 このように、LGBTに関する論争は、歴史ある一冊の雑誌を、事実上廃刊にまで追い込んだわけだ。

 では、この間、LGBTと社会との関係のあり方に関して「生産性のある議論」がなされたかというと、そんなことは決してない。「差別があった、なかった」という押し問答や、感情的な言葉狩りが横行しただけで、具体的な制度提案につながるような議論にはまったく発展しなかった。

 そこで、そもそも杉田氏の論文の何が問題だったか簡単に考えてみよう。

 杉田氏の認識は「すべての国民は、結婚して、家族を持ち、国の発展のために、子供産んで増やすべし」とする狭い見識から導かれていると思える。こうした家族観を持つ保守層の識者は案外多いのだが、このような認識は決して日本古来の家族のあり方ではない。
 
【ここがヘンだよ!日本】感情的な言葉狩りが横行しただけのLGBT論争 「生産性のある論議」の皆無はいかがなものか (2/2ページ)
 
 
 例えば、江戸時代の零細農家では、長男のみが家庭を持ち、次男、三男は養子に行くか、家族の扶養を受けて一生独身で過ごすという形式がよくあったとされる。この場合、次男や、三男は「生産性がない」かというと、そんなことはなく、労働力として家計を支え、また、子育てにも参加して、家を維持するのに貢献していた。
 
 江戸時代ですらこうだったのだから、現代の社会で全員が家族を持って子供を作らなければならないわけでは決してなかろう。もちろん、社会の中核には、子を産み育てていく家族というものがあり、その生活を国として支えなければならないのは当たり前のことだ。だが、家族を持たない人も社会に貢献する方法はあるということだ。
 
 社会全体の役割分担の中で、LGBTのカップルというものを日本社会がどう受けてとめてきたのか、またこれからどう包摂していくのか、ということを考える議論こそが、今本当に求められることなのだろう。
 
 そんな当たり前のことが分からない人が国会議員をしていることは大変残念なことだが、言葉狩りで生産的な議論ができない、わが国のリベラル論壇もいかがなものかと、また感じる。 =おわり