1995年1月17日

阪神淡路大震災から16年が経ちました。

アタイはその当時、神戸の三宮のワンルームのアパートで美容師として、ひとりで生活をしていました。

寒くて布団に潜り込み、寝ていたら“カタカタ”とガラスの鳴る音がしたら、急に揺れだし、ベットから振動で落ち、掛け布団を必死に握り、身を丸くしていました。

揺れがおさまり、頭を覗かすと、部屋は美容道具から本から部屋中に散らかってるようでした。
陽も昇ってないし、電気は点いてないし、感覚で感じとりました。
懐中電灯は買ってあったので電気を点け、揺り返しがあると思って、その場でジーッとしてました。

外では、家から出てきた近所のおじさん・おばさんの声がして、アタイはやっと行動に移した感じで、鞄に必要最小限の荷物を入れ、部屋を出ました。
アパートのドアには


『生きてます。避難します。』


とだけ書き、張り付けました。

避難場所に指定された所に行くと、沢山の避難市民の方が。

でも、その避難場所に行くまでには、電線が切れ、ガス臭かったり、ガラスや瓦が割れて道に散らばり、家屋の中から声がしたり、家屋の中に残された人を助け出そうと必死になってる方がいました。

避難場所もあっという間にいっぱいになり、外にまで溢れだしました。


『どうする?帰る?帰れる?電車は?』


ただただ不安でした。

アタイはまだその当時23歳。


気持ちを落ち着かせようにも、火事で煙が見えたり、パトカーや消防車のサイレンが鳴り響いていては、落ち着かせるのは無理でした。

数時間が経ち、太陽も昇りきった頃、やっと鞄から小銭を取り、公衆電話を探して、実家に電話をするも、小銭がストンっと落ちてきて、電話線も寸断されてました。


『今、私に出来る最大限のことは、無事である事を両親に伝える事!あとは、行ける所まで沿線を歩いて少しでも三重県に近づく事』

と思って、ひたすら歩き、歩いた先に公衆電話があれば実家に電話をかけました。

“三宮駅”と書いた看板が足元にあるのを見て、私は足が止まりました。

普段なら高架に掲げてある“三宮駅”の看板が足元にあり、気持ちを切り替えた私も不安な気持ちが再び戻りました。

でも、頑張って頑張って歩きました。

やっと、電話の繋がる公衆電話を見つけ、長蛇の列に並びました。

実家の電話番号を震える手で必死に押し


『プルル…。もしもし〇〇か?(アタイの名前)生きてるか?母ちゃんや!今どこや?こっちも行けるとこまで迎えに行くで!何処におるんや?』


こんなに安心した声はありませんでした。

いつもなら“うるさい声”のはずが、その時ばかりは“安心する声”でした。


『まだ道が無理やから、こっちが行けるとこまで行く。大阪に近くなったら電話も空いてるやろでまた電話する。それまで待ってて』

と言って、電話を切りました。


電話をかけた後、必死でした。
それまで以上に必死に力強く歩きました。

母の声を聞き力が出たのだと思います。

一歩でも前に!!


大阪近く、兵庫との県境に来た所で交番を見つけ、警官に事情を説明し再び実家に電話。


真夜中にも関わらず、コールは1回で母が電話口に。

『〇〇交番にいてる。迎えに来れる?』と言うと

『〇〇交番やな?分かった!ちょっと警官に代わり!』
電話を変わると、何やら母と会話をし

『事情は分かりました。保護していますので、安全運転で迎えに来て下さい。』
と、警官。

交番で、両親と姉の来るのを待ちました。

待ってる間、警察官の方もよくしてくださり、少しの間体を休ませてもくれました。

ストーブの温かさは今でも覚えています。

交番に訪れた方達から、お茶やおにぎりを頂いたり、見ず知らずの方にも「無事で良かったなぁ」と我が身のように泣いてくださり、本当に人の温かさを知った時でした。

数時間後、交番に駆け込んで来た母を見てただただ泣きました。
緊張の糸が切れたように泣きました。
母親の温かい体と、父の大きな腕と、姉の優しい心と、私は全身で感じとりました。

交番の方にお礼を告げ、実家に帰りました。


実家に着き、風呂に入る時に鏡を見たら、髪はボサボサ、顔はススで汚れ、服は破れたり汚れたりで酷いものでした。




今、母として妻として生きていられることに感謝してます。

震災から16年が経ち、若者達には風化しつつある震災。
6434人の被災者がいることを、そして『がんばろう神戸』のスローガンのもと、全力で復興に力を注いだ事を忘れないで欲しいと思います。


アタイは震災で5名の友人を亡くしましたが、希望半ばで亡くなった友の目となり体となり、今を生きています。

アタイのチビ達にもこの事を伝え、チビ達が大きくなった時、何となくでもいいから、ふとした時に思い出して欲しいと思います。