運命の分かれ道 その六
「ジャッカルの日」のストーリーのモデルとなったのは、フランス大統領シャルル・ドゴールの暗殺未遂事件「プティ-クラマール襲撃事件[attentat de petit-clamart]でした。
ドゴールは、1890年11月22日生まれの身長196センチの大男であり、軍人で将軍でした。第2次世界大戦後のフランスを象徴する威厳のある大統領でした。その威風堂々とした巨体だけでなく人を惹きつける風格とカリスマ性を備えておりました。ドゴールには二つの力があると言われていました。権力とペンです。
彼は、幼少期より文才が評価され、長じては1954年の「ドゴール大戦回顧録」[memoire de guerre]が高い評価を受け、1963年にはノーベル文学賞の候補にもあがったほどです。
人を鼓舞する演説は図抜けており、ナチスドイツに占領されたフランスのレジスタンス運動を亡命先のロンドンからラジオ放送で支えた功績は大きなものがありました。彼の演説は常に力強く、人に信頼感を与える天性の才能を秘めていたのではないかと思います。同時に彼は、類い希なる強運の持ち主で、第1次世界大戦から戦場にあって負傷をし捕虜となったこともありました。そこで5回も脱走を繰り返しましたが致命的な傷を負うこともありませんでした。大統領職について後も散々命を狙われ、あるいは爆弾で、あるいはまた銃撃により襲撃されたことは一度や二度のことではありませんでした。しかし、いずれも無傷で切り抜けています。クラマールでの襲撃では機関銃での一斉射撃を受けましたが奇跡的に無傷で生還しています。放たれた銃弾は150発ともつたえられています。大統領車両も多数の被弾をしました。
これほど何度も命を狙われたフランス大統領が怪我もなく無事に切り抜けたことと一度の銃撃で命を落とした安倍元首相の運命を比較すると人の運命にはなんとも不思議な力が働いているような感覚を覚えます。
さて、ジャッカルの日ですが、フランスにおいて絶大なる人気を誇っていたドゴールが命を狙われることとなったいきさつはアルジェリア独立戦争を巡るごたごたがその始まりでした。
第二次世界大戦後東南アジアを中心に独立運動が相継ぎましたが、その影響はアラブ世界やアフリカにも及びました。アルジェリア戦争もその一つで1954年に始まり1962年に停戦を迎える迄双方が多大の犠牲を払ってようやくアルジェリアが独立することになりました。
1954年10月にアルジェリアでFLN[Le Front de libération nationale](民族解放戦線)という組織が立ち上げられ11月1日に一斉蜂起しました。これより現地での独立運動が徐々に勢いを増していきました。フランスにとってのアルジェリアは、海外県という位置づけでフランス国家の一部という認識でしたから独立運動は反乱とみなされて鎮圧され続けたのです。しかし、弾圧がつよければつよいほど反発もまた強くなります。これに応じて独立運動を巡る現地の状況は泥沼化していきます。至るところで爆弾が炸裂し、銃弾が降り注いだのです。
フランスの植民地経営は、同化主義をとっていましたから現地の歴史習俗や文化にかかわらずフランス的に同化させようとする傾向になってしまいます。日本も同様に朝鮮半島で同化主義をとりました。こうしたことに歴史文化を無視される現地住民が反発を覚えることは必至です。自らのアイデンティティーを否定されることにも繋がるわけですから当然と言えば当然の反発だろうと思います。加えて全ての住民が等しく権利を享受したものでもありませんでした。率直に言えば差別もあったのです。
これに対してアングロサクソンの植民地経営は自治主義をとります。外見的には、その国は、同国人によって統治される形態をとります。それだけに本質的な問題が見えにくくなりますが、必要とあらば三角形の頂点にいる人間だけ取り替えれば修復が容易です。唯、実際の政治が偽善的なものに陥りやすくなることは避けられません。しかし、宗主国にとっては矢面に立たされることが避けやすくなります。
アルジェリアでは、サラン将軍general Salanが指揮を執って反乱軍の鎮圧を試みますが膠着状態が続きます。そこで担ぎ出されたのが人望の厚いドゴールだったわけです。大統領就任前のドゴールは、アルジェリアはフランスから分離すべきではないと公言し、独立に対しては反対の立場をとっていたのです。ドゴールは、1958年6月4日にアルジェにおいて群衆に向かって「あなた方のことは理解した」「フランスのアルジェリア万歳」と呼びかけて喝采を浴びます。群衆も英雄ドゴールの力強い言葉に大きな希望を抱くこととなります。そしてその翌年ドゴールは大統領に就任します。アルジェリアのフランス人達にとっては願ってもない大統領で期待は大きく膨らんだものと思われます。ところが、フランス本国では海外植民地に対する考え方が大分変わってきます。長引く戦争のため経済的にも大きな負担がありました。その上に世論は「民族自決」を支持するように変化していきました。世論の変化と国の経済状態は無視し得ないものがあり、大統領就任後ドゴールは、アルジェリアの独立を認めるかどうかの国民投票にかけるという決定をします。その結果75%の国民の賛成があり、アルジェリアの独立が承認され1962年にエビアン協定が結ばれてアルジェリアの独立と戦争の停止が成立しました。
とはいえ、ドゴールのこの決定はアルジェリア現地のフランス人達にとって裏切り行為とみなされてしまいます。ドゴールに対する期待が大きかっただけに人々の落胆はそれ以上のものがあったのでしょう。この時からドゴールは度々命を狙われることとなります。取り残された現地の軍隊は、サラン将軍を含む4人の将軍を中心にOAS[organisation armée secrete]という秘密軍事組織を結成しクーデタを起こします。
いつの時代にも変化に取り残される人間がいます。とりわけ軍人は融通が利かないように出来ているのです。明治日本でも似たようなことが起こりました。各地で新政府に対する武士の蜂起がありました。西郷隆盛も担がれて士族の反乱に立ち上がることとなってしまいました。人は、自分の立場を離れて物事を考える事が難しいのだろうと思います。丁度、川の魚が川を見られないようなものかも知れません。高みに登ってみなければ川の形は分からないでしょう。そこに運命の分かれ道が用意されていたところで時代の流れに翻弄されるものには選んだ道の先に何があるか知る由はありません。
OASというのは、もともとがアルジェリア駐留の兵士達によって構成されたものです。サラン将軍始め4人の将軍達が中心となって組織されクーデタを起こしたものです。このメンバーの中にスチアン・チリー中佐がおり、プティ-クラマール襲撃事件の中心人物でした。以下のユーチューブのサイトはチリー中佐を中心にプティクラマール襲撃事件についてのノンフィクションフィルムですが残念ながら日本語も英語の字幕もありません。
写真は、当時の襲撃現場と現在の状況です。同じ建物が残っています。
https://www.youtube.com/watch?v=w0IOTuMzBEEe
大いなる被害を生み出したOASによるクーデタですが、ドゴールは、あらゆる手段を用いて彼らの道を塞ぐと宣告します。サハラ砂漠での核実験まで行いましたが政府当局の厳しい態度にOASは、じり貧となり多くの逮捕者を出した後瓦解してしまいました。1962年迄にOASは、119名の死亡者を出し、635名が逮捕されました。うち有罪になったものが91名うち3名が死刑判決を受け銃殺刑に処せられました。ドゴール暗殺計画を練ったチリー中佐は3名とは別に軍事裁判にかけられ死刑判決、そして銃殺されました。中心的人物と目された4人の将軍は、いずれも死刑を求刑する意図でしたが検察の反対にあってうち2名は懲役刑残る2名は死刑判決が出されました。ドゴールは、刑の執行を望んだと伝えられていますが、首相のポンピドーの強い反対があり執行されず、暫くパリのサンテ刑務所で過ごした後恩赦を得て解放されます。
メンバーの摘発は1965年迄続き最終的に逮捕されたのは1万名に上りました。
アルベールカミュの「異邦人」は1942年の作品で当時のアルジェリアを舞台にしたものです。時代背景は、すでにアラブ人と現地フランス人達との間に軋轢があったことを示しています。カトリーヌドヌーブ主演のシェルブールの雨傘も恋人がアルジェリア戦争に取られた悲劇から始まりました。アルジェリア戦争は、始めから終わりまで、そしてその後も大きな社会問題をフランス社会に残しました。
こうした史実を前提にフォーサイスのジャッカルの日はフィクションとして描かれているものですから人々の注目を大いに集めたものです。結局ジャッカルの狙撃は架空の話ということになっていますので失敗の結末で事件には霞がかかったままですが、現実的にはこれに類似するような国際的事件は度々引き起こされています。それがエコノミックヒットマンの語るストーリーにも展開されています。安倍元総理の事件はどうなのでしょうか。