《一部文字起こし》

 

「ロッテントマト」という有名な映画のサイトがありまして、もう満点に近いものが一般の映画ファンと批評家による採点が非常に高い数値になっていて、普通だったら有り得ないほど高水準の評価を得ていたわけです。

 

寧ろその…作品賞始め、各賞を総なめしてしまった「オッペンハイマー」という、これは元々ドイツ人だったオッペンハイマーがアメリカに亡命した後、親の代ですね、亡命したのは、で物理学者となって原子爆弾の開発に成功したわけですが、彼の一生と言いますか、半生を描いた映画なんですが、そこでその核兵器に対しての視点が、これでいいのかっていう批判が結構ありまして、実はそれほど高い評価を得ていなかったというのがあるんですね。

 

実はアカデミー賞というのは、ノミネート作品になる前に製作者がエントリーする仕組みになっている賞が多いんですね。

 

例えば外国映画賞、役所さんの映画もノミネートされましたけれども、それを実は、今回東宝が全然やっていなかったという事なんですね。それで視覚効果賞がギリギリそれに気が付いて何とかエントリーをしたと…いう顛末があるんですね。

 

それで、もし作品賞とかに「ゴジラ-」がエントリーしていたら候補作品にもなっでしょうし、ある意味「オッペンハイマー」と競っていたと、そういう可能性もあったわけですね。

 

しかしハリウッドのこれまでの最近の潮流と言いますか、映画に対しての基準と言いますか、それが非常に政治的になってきている、というそういう問題がありまして、そういう意味でもしかしたら、オッペンハイマーは強力な他の作品があったとしても、作品賞を受賞した可能性もあるんですね、つまり、第二次世界大戦におけるアメリカへの免罪符に当たる賞になってしまったという、そういう一面があるんですね。

 

そこで私がどうしても申し上げたいのは、もう偉大な監督の一人になったと言っていい山崎貴さん、彼は元々はVFX特殊効果に非常に精通していて、今回も白組に入社していた方なんですね。その後映画監督になったわけですが、非常にシナリオの持って行き方というのが事実に即したところからあまり政治的な主張にならないように注意深く作品を作っていたわけです。

 

何故今回この「ゴジラ」を私が激賞しているのかというと、これは山崎監督の意識を超えた地点で偶然といっても良いんですが重なった事があるんですね。

 

何が重なったかというとアカデミー賞の発表が3月10日だったんです。

3月10日は何かというとニュース、新聞報道を見れば思い出す人もいるかも知れませんが、今を生きている日本人にとって、東日本大震災の前の日と。

 

実は東京大虐殺いわゆる東京大空襲が行われた日なんですね、3月10日というのは。

 

一晩で確実に10万人以上の日本の民間人が焼き殺された日なんです。大虐殺以外の何物でもないわけで…。これがアカデミー賞の発表の日と重なった…という事はどういう事って言いますとね、実は作品賞を獲ったオッペンハイマーが原爆を完成し兵器として使用できるまでに開発した科学者の一生を描いたわけですが、オッペンハイマーは原爆を効果的に使う為に、今までのように地上で爆発させるのではなく空中で爆発させる、その方が効果的だと開発の趣旨の中ではっきり盛り込んでいるわけですね。

 

つまり、広島・長崎の、しかも二つのタイプの原爆を実験として日本人を対象にそういう虐殺を行ったわけですが、空中で爆発させるという事をアメリカ軍にサジェスチョンしていた、日本に対して、世界に対して最初の核攻撃だったわけです。

 

以前からずっと疑問だったのは、原爆投下という言葉がよく使われますが、冗談じゃない、何が投下だ!と。落下傘降下じゃないんだから、食物を投下しているんじゃないんですよ。明らかに核攻撃だというそういう言葉を使わないと本質が見えてこないんです。

 

ですから、広島にある原爆の碑文。あんなものはですね、書き換えなければ駄目なんです。『あやまちはくりかえしませぬから』という文章を見て、フィリピンで戦っていた小野田さんは情報将校だった、米軍の飛行機がどのように飛んでいくかというのを克明に記録していた。ベトナム戦争の時の米軍の動きも全部把握していた。その小野田さんが広島の碑文を見た時に、これはアメリカが書いたのかと言った。それが極普通の一般的な見方ですよね。

 

ところが、戦後GHQに閉ざされた言語空間に6年8か月押し込められた日本人はその後の日本メディアもGHQの報道規制のまま、今年は戦後72年になるんですが情報空間は全く変わっていない。だから現在もGHQが報道規制をしたまま使っているので、大東亜戦争って言葉を使いませんよね。太平洋戦争としか使わないわけですよ、NHKだって。

 

それはおかしいわけで、これだと日本の戦争を振り返る事にはならない。日本は閣議決定をしているわけです、大東亜戦争という名前を。

 

ところが、占領中に勝手に太平洋戦争と言った言葉を今なお使っている、そこからおかしいわけで。

 

そういう情報空間に慣らされた今の日本人は、『あやまちはくりかえしませぬから』というのを読んだ時に、何の違和感もなしに受け止めてるんですね。

それは異常な事なわけです。

 

その異常な事を前提としたのがオッペンハイマーという映画であるわけです。

で、『ゴジラ-ワン』の凄いところは、場面設定を終戦直後に持ってきてる。終戦直後というのは何もない、焼け野原、それこそ大虐殺のあった東京の焼け野原が残っていて、広島・長崎、或いは大阪、全国で焼夷弾による攻撃が行われたわけですね。

 

そしてカーチス・ルメイという空軍の司令官に東京オリンピックの後に佐藤栄作は勲章を与えている。これは米国に脅されてやった事

 

そして、今回のアカデミー賞が偶然の事に3月10日の東京大空襲の日に授賞式があって、そして作品賞を獲った映画が8.6、8.9広島・長崎への人類初の核攻撃の日、それと全部繋がりがあるものになってしまったという事なんです。おまけにゴジラは、第二次世界大戦後の水爆実験によって突然変異をした怪物なわけですね。

 

今回のゴジラ-ワンも最初に戦時中に登場した時はまだ核による変化は及ぼしてないんですね。その後、ビキニ環礁の水爆実験の中にあのゴジラがいて大きく変異をした状況で戦後の日本で、軍隊もない主権もない占領中の日本を襲ってきたのが今回のゴジラだったわけです。

 

そこで、旧軍人の日本人達が集まって民間組織を作って立ち向かおうという事になったわけです。

 

戦争中に特攻作戦を忌避して機体の調子が悪くて不時着する島に自ら降りてしまった敷島という名前の主人公が、戦後は今度は自分が立ち向かうんだと、戦中の事をトラウマとして敗戦の姿、そして自分がゴジラに襲われた時に反撃できず多くの整備兵が死んでしまった、そういったものを全部捨て去って自分の戦争を終わらせると立ち向かったものが、今回のゴジラ。

 

何故、アメリカ人の多くが共感したかというと、今のアメリカの状況をそのままに重ね合わせたわけですね。国家が分断されていて、キャンセルカルチャーによって歴史も伝統も破壊尽くされようとしている。そんなアメリカを生きているアメリカ人にとって、あの敗戦の占領された日本人に非常にシンパシーをもってアメリカ人は接する事が出来たんですね。だからこそ物凄い人気になって上映後に拍手が起きる事になった。

そういう背景があるという事を理解すれば、今回の特殊効果賞というものがどれだけ大きな意味を持っているかと理解して頂けると思います。

 

特殊効果賞であるにせよ、過去のアカデミー賞の中で監督が受賞したのは、実はスタンリー・キューブリックしかいなかったんです。

スタンリー・キューブリックは何で受賞したかというと、1968年公開の「2001年宇宙の旅」です。あの映画は今や伝説の映画で、是非観て欲しいです。

 

1960年代にあんな映画を作ったスタンリー・キューブリック。彼が物凄いお金をかけて特殊撮影を行って、当時はCGはなかったですね、模型を使いながら合成技術によって非常に精密な特殊効果の映像を作ったわけですが、映画そのものの持っている哲学的な意味、非常に深いものがあったわけです。

 

そのスタンリー・キューブリックが監督として初めて映像効果賞というものを受賞していた…と。そして二人目の受賞が山崎貴さんだったという事が、これは本当に大きな意味を持っています。

 

そしてもっと大きな意味はですね、アカデミー賞の時に同時に作品賞として或いは他の賞も総なめにした「オッペンハイマー」が原爆の開発者の物語なわけですがね、その事について山崎貴監督は何て答えたか…。

 

これもあまり報道されていないんですが、山崎さん素晴らしい発言をしたんですね。

 

「オッペンハイマー」に対してのアンサーを日本人としてしなければいけない…と。

 

これはなかなか意味深ですよ。アメリカ人が第二次世界大戦における核兵器開発をどのように今描いたのかという事に対して、核攻撃を受けた日本人として、あの「オッペンハイマー」の映画に対しての返答をしなければいけないって事ですね。アンサーって言ったわけです。

 

それを山崎貴さんがやるとなると、これは非常に大きな意味を持ってくると思います。

 

ここからは私の勝手な推論になるんですが、そうなってくると核兵器というものは、今までの日本人の、攻撃を受けた側がですね、『あやまちはくりかえしませぬから』と言っている。そしてその碑文がもちろん過去においても問題になってその弁明の為に出てきてる言葉が、あれは主語は日本人ではなくて人類なんだという事を言っているわけですね、それだったらそうはっきり書けばいいんですよ。ところが書いていない。まるで主語が日本人かのように受け止められる文体になっている。

 

そういった核に対しての歪な感情。被害者であるという事で何かを免罪しようという、何か卑屈な意地汚さが見えてくるわけですね。そうではない、そういった視点も消去して、戦争を早く終わらせる為に核兵器を使ったという、これはアメリカのデマですね。

 

ドイツにも使わなかった。何故日本に使ったのか。

 

それはもう明らかなわけで、日本人はいくら虐殺しても構わないという前提があったから核兵器を使う前に、その5か月前に3月10日東京大空襲が起きているわけです。その東京大空襲の前だって他の都市でさえそれに近いような空襲を行いながら、そういった夜間の空襲だけでなく、通学から帰宅する子供達に機銃掃射で、或いは普通に歩いている民間人を殺しているわけです。 有色人種は人間とは思っていないから…

 

そういう戦争犯罪を数限りなく繰り返し日本人を虐殺したアメリカ軍が、戦争犯罪に全く問われない状況を作ったのが、東京裁判だったわけですね。

 

ですからこれまでは、核兵器に対する被害者の立場も東京裁判という切り口から逃れていないところから被害者としての日本人を語った。

 

核兵器を使った側、戦傷者として東京裁判の視点から抜けきっていないところから使っていたわけですね。

 

そういったものを全部相対化してしまって、全く真っ新なところに核兵器というものを攻撃された側と攻撃した側が、新しいレベルのところに核兵器を置いた時に、仁るにとっての核兵器というものは一体どういうものになるのかという新たな視点がそこにもたらされるはずなんですね。

 

私は山崎貴監督にはそれを望みたいですね、どうせだったら。

 

被害者の視点ではない、別の視点ですね。

 

参考にする文献があるとしたら、典型的な例で言えば、大江健三郎の広島ノート。あんなものは絶対に参考にして欲しくないわけです。

 

参考にするとしたら、井伏鱒二さんが書いた小説「黒い雨」です。非常に淡々とした筆致の中で核兵器で攻撃されるという事の恐ろしさを見事に描いた小説。そこには被害者とか日本が戦争を起こしたからとかそういうバカげた視点は全て排除されていた素晴らしい小説があるわけです。

 

フランスのヌーベルバーグという新しい映像作家達が作った中での、「広島その愛」マンであるという原作を元にしたアラン・レネの映画があるわけです。「24時間の情事」これは広島が舞台になっていてそこにフランス人のジャーナリスト(女性)が訪れる。そこで被爆体験のある男が出てくる。それが渋い岡田英二さんという俳優で、そのフラン人女性と岡田英二さんの恋愛を描いたものです。

 

フランスの視点で描いているので、核攻撃を受けた日本とそこに行ったフランス人のジャーナリストの女性との関わりですね。

 

そういった視点というものをきちっと持てるのは、山崎貴さんだったら私は出来ると思います。それは彼に本当に期待したいです。

 

そういう視点で提供された時に、初めて日本も核兵器というものを今までの被爆体験といったレベルと違うところで初めて客観的に見る事が出来る。

 

そうなった時に日本としての核戦略が実効性を持ってこれるわけですよ。

 

そうすると日本が核抑止をどのように自国の安全保障に使うのかというそういった視点もきちっと持てるようになると思うんですね。

 

これは本当に歴史的な一歩になると思いますしアメリカの属国から脱出する新たな一つの視点を提供する重要なポイントになると思う。

 

そういったものまでも、実は「ゴジラ」は密かにそういった視点まで用意しているんだと、そこまで私達は観て評価しないといけないと思うんですね。

 

これは、もしかして山崎貴監督の考えていた事と全く違うレベルで勝手に私が言ってるのかも知れませんが、しかしこれは映画を作っていない私にとって唯一の権利なんですね。楽しみでもあるわけです。勝手な解釈です。

 

「ゴジラ」をきちっと評価しながら、こういう見方もあるよ、こういう事も考えられるよ、という事が非常に重要な事であるわけですね。

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