約25分の動画です。是非、お時間を作ってご覧下さい。

 

≪一部書き写し≫

 

今から170年前1853年7月、アメリカのペリー提督率いる4隻の異国船が浦賀沖に現れ、日本は開国します。この時、日本が植民地支配される瀬戸際だったと言われていますが、実はそれ以前から日本は何度も植民地支配の危機に直面していたのです。

 

では何故、日本はその危機から逃れる事が出来たのでしょうか?

 

15世紀にヨーロッパで始まった「大航海時代」それは、羅針盤を手に入れた国々が外洋航海を可能にし世界に進出した時代の事を指します。

 

ヨーロッパの国々は、先を争って新しい航路を確立し発見した「新しい大陸」を自分の領土にする為に領土獲得競争を始めました。これが「植民地政策」の始まりです。

 

当初は、スペインとポルトガルが他のヨーロッパ諸国よりも先駆けて世界進出していました。しかし、彼らが「新しい大陸」で行った行為は現代の常識では、到底考えられないものでした。

 

南米に辿り着いたスペイン人は現地の人々に奴隷労働を強制し、人々を制圧する為に、極めて非人道的な、人を人とも思わない行いを繰り返しました。

 

コロンブスと同時代のスペイン人宣教師であるラス・カサスは、その非道な行いを告発する文章を国王に送っています。ラス・カサスが残した記録によるとエスパニョーラ島(現在のハイチ・ドミニカ共和国)に約300万人住んでいた住人は、コロンブスが来てから僅か50年で200人まで激減しました。又、50万人いたバハマ諸島の人々は、11人まで減少しました。

 

スパインは、アステカ帝国を滅亡させて、当時、世界最大だった銀の産出地を手に入れインカ帝国を征服して金の鉱床を手に入れました。更に、南米大陸の52%を領有し、北米大陸の総面積の26%を手に入れました。

 

又、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ天然痘、梅毒、コレラ等の病原菌が免疫のない現地の人々の命を次々と奪っていきました。

 

コロンブスがサン・サンバドル島に上陸してから110年後には、南米に4000万人から1億いたと推測される現地の人々は1000万人にまで減少しました。

 

そして不足した労働力を補う為、今度はアフリカの人々が中南米に送られました。

 

この奴隷貿易は400年も続けられ、8000万人から1億人のアフリカの人々が犠牲になったと言われています。

 

大航海時代が終わり18世紀になると、欧米では産業革命によって飛躍的に技術革新が進み、本国から本格的に移住をはじめ、征服した国を経済的に開発して統治するようになりました。この征服された土地が「植民地」と呼ばれます。

 

この頃になると、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ等の国々も植民地を広げていました。

 

現地では人々を服従させる為に、教育を受けさせない政策を行いました。現地の人々は文字を読む事が出来ず、その結果、反抗する能力を奪われ、高い税金の支払いと労働を強いられる事になりました。

 

当然の事ながら、現地の人々と移住者との間で軍事的な衝突も起こりました。

 

北米では、16世紀頃から白人が入植した事により200万人いたとされるネイティブアメリカンの人口は、19世紀には僅か35万人にまで減少しました。

 

現在の感覚で考えると欧米の植民地政策は「侵略」にしか見えませんが、当時の常識では「領土拡大」と言って、このような行為は正当化されていたのです。

 

こうして15世紀から19世紀にかけた欧米列強の領土拡大政策で「南北アメリカ」、「アフリカ」、「オセアニア」、「インド」、「西アジア」「中東」、タイを除く「東南アジア」が植民地化されました。

 

ブリタニカ辞典によると欧米列強が支配した植民地は、第一次世界大戦が始まった1914年頃には、地球の表面面積の85%に達していました。

 

そんな中、何故日本は植民地化されなかったのでしょうか?

 

大きく分けると、日本の危機は3回ありました。

 

古くは鎌倉時代の「元寇」の時、それから戦国時代から江戸時代の初め「大航海時代」の時、そして江戸時代末期「欧米帝国主義」の時です。

 

何故日本は植民地支配されなかったか

 

理由1    鎌倉武士団と幕府の情報力が優れていたから

 

元寇とは13世紀後半の鎌倉時代、モンゴル帝国(玄)によって二度にわたり行われた日本侵攻の事です。この元寇は失敗し元軍は撤廃した為、日本はモンゴルの支配を受ける事から免れました。

 

元が撤退した理由については、「神風(暴風雨)」のお陰で元軍の船が沈んだから、という説が一般的です。

 

しかし、近年の研究では「鎌倉武士」が強かったという事が再評価されています。

又、襲ってきた元軍の殆どが勇敢なモンゴル人ではなく、当時の朝鮮半島の国家であった高麗とその他の民族だった為に、勇敢な鎌倉武士が押し戻したとも言われています。

 

加えて、日本は南宋と繋がりがあり、そこから元の情報を収集していました。そして情報収集の結果、元の属国になるよりも、元と戦う選択を行ったようです。又、二度目の元寇までの7年間、鎌倉武士は集団戦闘の訓練を行い、北九州に約20キロに及ぶ石塁を築いて元の襲来に備えました。その結果、元を撤退させ日本を守る事に成功したのです。

 

理由2   神道を重んじ国民の心が一つになっていたから

 

戦前の教科書では、元寇の勝因は「武士の勇武と民草の働きが合わさり国中が一体となって国難に当たったから」「御稜威、神の守りがあったから」と記されていました。

 

これは「精神論」になるので理由にならないと思われるかも知れません。

 

しかし、戦後、GHQは日本を作り変える為、わざわざ「神道指令」を発して国の政治から神道を切り離し、学校や役所などの公的な場に神棚を祭る事を制限しました。

 

更に「八紘一宇」という言葉も禁止されました。

「八紘一宇」とは、日本書紀に記されている建国の理念、神武天皇の「橿原奠都の詔」を元に作られた言葉で「世界の隅々までも一つの家族のように仲良く暮らしていける国にしようではないか」という意味があります

 

GHQは「日本人の強さは日本人の精神に根ざしている」と考えこの言葉を制限したのかも知れません。こういう日本人の精神は鎌倉時代には出来上がっていました。

 

このような日本人の「団結力」も国を守る一つの武器だったと言えるのではないでしょうか。

 

理由3   宣教師達の野望を見抜いたから

 

大航海時代、当時ヨーロッパの中で突出していたポルトガルとスペインは条約を結び、世界を勝手に二つに分けていました。日本はちょうどその境界線に位置していた為、16世紀半ばになると両国の宣教師が入れ替わり立ち代わり来日する事になります。

 

1543年種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人により、鉄砲が伝来しましたが、ポルトガル人が乗っていたのはこうした背景があった為です。

この時はまだキリスト教の布教は許されていました。当時は「南蛮貿易」と呼ばれて西洋との交易をむしろ歓迎していたのです。

 

ところが、九州平定に赴いた豊臣秀吉は、キリスト教に改宗したキリシタン大名によって長崎などがイエズス会に寄進され、日本人が奴隷として世界中に売られている事を知りました。

 

秀吉はそこで、スペイン・ポルトガルの野望に気がついたのです。

 

その野望とは、スペインが南米で行ったように狙った土地に先に宣教師を送り込み、表向きは「布教」させながら、実際は将来の植民地の情報収集や懐柔工作を行う事、そして改宗した人々を操って味方につけた後、軍隊を送って土地の人々を殲滅し、植民地にするという事でした。

 

実際、スペインはインカ帝国の皇帝に改宗を迫り、これを拒否すると命を奪い、インカ帝国を滅亡させています。

 

そこで秀吉は「切支丹バテレン追放令」を出し「唐入り」、つまり明国(当時のシナ大陸の王朝)を征服する為に朝鮮半島へ出兵しました。

 

ちなみに、この事について「半島侵略」と書いている教科書が多くありますが、実際には半島は通り道に過ぎませんでした。

 

秀吉の狙いは「明」で、出兵した目的は、「スペイン・ポルトガルの植民地支配の脅威から逃れる為」だったのです。

 

弱体化している明が、スペインやポルトガルに征服されれば、半島や日本が植民地化される危険性は明らかでした。だから秀吉は両国に先駆けて明を支配下に置こうと考えたと近年では言われています。

 

又、江戸幕府の三代将軍・徳川家光の時代にはキリシタンの反乱である「島原の乱」をきっかけにポルトガルの貿易商を国外追放し鎖国政策を引き締めています。

 

理由4  戦国時代の軍事力が充実していたから

 

戦国時代は武士の戦闘能力が最高に高まっており、鉄砲を500万丁も量産していました。この時代での鉄砲保有数は世界一だったと言われています。

 

このように鉄砲を量産する事が出来たのは、日本の職人達が優れていたからです。

彼らは種子島で手に入れた火縄銃を僅か半年で複製する事に成功しました。

 

更に外国産の火縄銃を改良して精度を高くし、オリジナルよりも性能がずっと良いものを量産化しました。ヨーロッパ人が「征服」の手段として使っていた鉄砲を日本人は大量に生産したのです。

 

この事を見ていた宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、スペイン国王に「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服が可能な国土ではない」と進言しています。

 

理由5    そもそも地理的に孤立していたから

 

一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到着した事で大航海時代は終わりを告げます。そして、18世紀中頃から始まった産業革命によって資本主義が発達し、欧米諸国が領土や市場を拡大させました。

 

日本が植民地支配を免れていたのは、これらの大国から遠く離れた孤立した島で植民地化する事が困難だった事、列強が注力していたインドや東南アジアと違って、日本を植民地にする優先順位が低かったという事が考えられます。

 

又、作家の竹村公太郎氏は、著書「日本の謎は地形で解ける」で、日本が植民地にされなかった理由として「地形」と「気候」という独特な見解を挙げています。日本には豊富な鉱物資源や広大な土地がなかった事、また、日本列島には「欧米人を恐怖させる自然が嫌というほどあった」からだと記述しています。「欧米人を恐怖させる自然」とは、日米和親条約を締結してから5年の間に大地震が相次ぎ、コレラが蔓延し、江戸市中が大水害に見舞われた自然災害の事を指しています。

 

理由6   江戸幕府がペリーと対等にわたりあったから

 

日本が植民地になる可能性が一番高かったのは、日本が開国した時期です。

 

「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も寝られず」という、有名な狂歌があります。これは、1853年にペリーが来航した時の事を歌ったものですが、この歌をご存じの方は、江戸幕府は混乱しペリーの圧力に屈服して開国した、という印象を持っているのではないでしょうか?

 

しかし、事実はそのような単純なものではありませんでした。日本は鎖国政策を施行していた江戸時代においても、海外の情報収集に努めていました。この知識は、アメリカのペリー提督との交渉において日本が堂々と自己の立場を表明する上で重要な役割を果たしました。

 

その情報源の一つが「阿蘭陀別段風説書」です。この報告書は、オランダから提出され、幕府はこれを通じて海外の動向を把握していました。具体的には、ペリー来航の目的や、その時のアメリカの武器・装備について、実際の来航の1年前から知る事が出来ていました。

 

ペリーの艦隊が現れた時、最初に接触・交渉したのは、浦賀奉公所の与力・中島三郎助でした。彼は艦船を研究しており更に世界情勢にも通じていたので、ペリー側との交渉で一歩も引けを取りませんでした。

 

日本高官とでなければ交渉しない、「カッター(端船)」で上陸して、大統領書簡を直に渡すというペリー側の要求に中島は屈せず、国には「その国の法」がありその法を犯す事は出来ない、と堂々と主張したのです。翌年、ペリーは、艦船を増やして江戸湾に入りました。彼は圧倒的な軍事力を背景に強硬な交渉手法を用いました。

 

その時、ペリーに対応した人物は日本側全権の林大学頭(林副斎)でした。

 

ペリーは日本に対してモリソン号事件を持ち出し、漂流船員に人道的待遇を求め併せて通商関係を要求しました。モリソン号事件とは、アメリカの商船モリソン号が漂流した日本人7名の送還と日本との通商を求めて来航したものの、異国船打払令により、日本から砲撃を受けた事件の事です。

 

ペリーは、「人道的待遇」が保証されない場合は戦いも辞さない、という強硬な姿勢を見せたのです。

 

林大学頭は、ペリーの主張に対し反論しました。モリソン号事件は既に17年前の事件でありそれが長年の恨みを引き起こしているとは思えない。それなのに、その事件を理由に持ち出すのは強引なのではないか、と指摘したのです。

 

林大学頭の巧みな交渉によりペリーは通商の問題で譲歩した為、この時通商条約は盛り込まれず下田と箱館(現在の函館)2港の開港と人身保護と物資の補給を主目的とした日米和親条約が締結されました。結局、日本はアメリカの要求を一部受け入れました。しかし、日本が軍事的に劣っている中、幕府はペリーの恫喝に屈せず主張すべきところは主張し、相手側の譲歩も引き出し、結果として植民地支配を免れた事は評価されるべきではないでしょうか。

 

ちなみに、日米和親条約締結後、幕府がすぐに行った事は海軍力の増強です。加えて江戸湾の防衛を強化する為に、6基のお台場(砲台)を建設しています。

 

理由7    江戸時代の教育水準が高かったから

 

欧米列強はアフリカ、インド、アジアを殆ど植民地にした後、日本にやってきました。

 

欧米人から見れば、日本人はおかしな恰好をして木造の家に住んでいる貧しい国に映ったようです。

 

しかし、彼らは日本に上陸して日本を研究し、識字率の高さに驚愕しました。そして色々な証言を残しています。

 

例えば、ペリーの『ペリー提督日本遠征記』には次のように書かれています。

 

「日本では読み書きが普及していて見聞を得る事に熱心です。教育は日本全土に普及しており清国の女性とは異なり、日本の女性は男性と同様に知的な発展に参加し、しばしば母国の文学にも精通しています。アメリカ人が接触した日本の上流階級は自国だけでなく、世界の地理や物質的な進歩、そして現代史についても一定の知識持っていました」

 

又、1860年に来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー艦長は、「エルボ号艦長幕末記」の中で「日本では召使の女性が互いに親しい友達に手紙を書く為に、余暇を利用しボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができる事で我々を驚かす。民衆教育について我々が観察したところによれば、読み書きが全然出来ない人は全体の1%に過ぎない。世界の他のどこの国が自国についてこのような事を主張できようか?」と書き残しています

 

当時、武士はほぼ100%読み書きが出来、庶民の男性でも50%、女性は20%読み書きが出来たと推測されています。

 

首都にあたる江戸の就学率は70~86%に上りました。これに対して、1837年頃のイギリスの大工業都市での就学率は僅か20~25%、フランスは1974年に初等教育無償化が行われたものの10~16歳の就学率は1、4%でした。

 

江戸時代には教育機関として、幕府直轄の学校である「昌平坂学問所」、班ごとに設置された「藩校」、民間の教育機関である「私塾」庶民の初等教育機関にあたる「寺子屋」がありました。中でも寺子屋は江戸末期には、15000以上も存在していたと言われています。その寺子屋では、「読み・書き・そろばん」を教えるにあたって成長段階に合わせた教育が施されていました。

 

統一された教科書があるのではなく、子供ごとに能力を引き出し、将来に必要な事を教える個別指導でした。つまり、社会に出た時に、即戦力となるような指導内容になっていたのです。

 

又、道徳に基づいた人格形成にも力を入れていました。

 

ペリーと交渉した与力クラスの人材が堂々と論戦を繰り広げられるほど高いレベルだったのは、江戸時代の教育方法が大いに影響していたと考えられます。

 

又、列強国は日本に独特の文化が花開いていた事、インフラが整備されていた事にも驚きました。

 

そして薩英戦争では一つの幡だけで、英国を手こずらせるような戦闘力を見せつけました。

 

これらを総合して列強の国々は、「日本を植民地化する事は容易ではない」と、警戒したと考えられます。

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明治維新で急速に近代化して国力をつけ、日清・日露戦争で勝利した結果、長年、列強国に苦しめられたアジア諸国は植民地支配から独立するきっかけを得ました。

 

そして日本は、「アジアを植民地支配から解放した国」と称賛されました。ところが、大東亜戦争に敗れた後の日本は、「アジアを侵略した国」という全く真逆の評価を受ける事になりました。

 

欧米の「植民地政策」では、現地の人口は激減し、人々に対して教育も制限されていました。

 

一方で、日本の「日韓併合」、「台湾統治」では、現地の人口は2倍に増え学校を作り、識字率も向上しました。

 

人口の増減を見ても欧米と日本の政策には、全く異なる性質と目的があった事がわかると思います。

 

戦後、日本の学校教育では日本の歴史観ではなく、戦勝国や隣国など他国の歴史観に基づいた教科書が使用されてきました

 

その結果、戦後の日本人は「日本は悪い事をした国」という自虐史観を無意識に刷り込まれてしまいました

 

そして現在では、戦勝国に言われた事を鵜呑みにする習慣がつき、日本人の胆力・判断力が失われ、それはまるで「属国」状態になってしまった、との声も聞こえてきます

 

しかし、歴史を振り返ってみてみると、日本は何度も困難な状況を乗り越えてきました。

 

戦争に敗れ、資源もない中、世界有数の経済大国に上り詰めたのは「奇跡」とも言えます。

 

更に、日本には「造り変える力」があります

 

例えば、大陸から漢字が入ってきた時、日本人は漢字を採用しても、大陸の発音は使わずに、日本語読みのまま漢字の使い方を造り変えました。

 

芥川龍之介は、小説「神々の微笑み」の中で「日本人の力」は「破壊する力ではなく、造り変える力である」と結論づけています。

 

又、アニメやゲームは日本発祥ではありませんが、日本はそれを造り替え、日本人の多様性を尊重する価値観と共に世界に広めました。

 

そしてその評価は、日本に逆輸入され、再評価されてきています。

 

これらは、ほんの一例ですが、外から入ってきた価値観をそのまま受け入れるのではなく、日本人の「造り変える力」を発揮し続けていく事で、我々は現状を乗り越えていけるのではないでしょうか。

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