こちらは、日本最古の知的障害者のための教育実践施設です。
創設者の石井亮一氏は、能美地震で多くの孤児が出ていて、
「いと小さきものに為したるは我になしたるなり」という方針のもと、
その中でも、人身売買の被害にあっていた孤女救済に取り組み、
聖三一弧女学院を開設したそうです。
そんな中、更なる弱者である知的障害者の救済に携わるように
なっていったそうです。
そして、この学園の維持に尽力した、妻となる筆子さんは、
大村藩士・男爵渡辺清氏の娘で、一度結婚して生まれた子供の
2人が知的障害をかかえていた縁で、石井氏と知り合い、支援を
するようになり、既に夫が亡くなっていたので後に再婚したのだとか。
この筆子さんという方も、とても優秀な女性で、東京女学校を
卒業後、皇后の命令で渡欧、帰国後は、津田梅子氏とともに、
華族女学校の教師となり、貞明皇后を教えていた時期もあった
そうです。
また、静修女学校の校長も務めた女性だったのです。(石井氏
と結婚後は、津田梅子氏に引き継ぎ、津田塾大になった学校)
大正9年に、園児の失火がもとで、学園の大半を焼失し、園児6名
が亡くなった時には、石井夫妻は閉演を決意したそうですが、東京
女学校時代の同級生、穂積歌子氏(渋沢栄一氏の娘)が父とともに
来園し、援助を申し出、また、貞明皇太后が存続をのぞまれ、金一封
を下賜され、他にも筆子の同級生、元同僚、教え子などから見舞金、
寄付が寄せられ、存続することになったのだそうです。
当時のお金持ちは、こういう形の社会貢献を熱心に行っていた。
だからこそ、苦しい時期を乗り越えながら、今に続いているのですね
とお話しされていました。
続きます。