こちらは、旧 長崎高商表門衛所 の建物。
官立高等商業学校の創立時、表門にあった門衛所を移築したもの。
学校は、その後昭和24年に長崎大学の経済学部になったのだそうです。
ここで、ボランティアガイドのおじちゃんに話しかけられ、少しだけ
お話を伺ってきました。
そのおじちゃんの言葉がかなり博多弁に近く、不思議に思ってたら、
江戸時代、長崎港の護衛は、福岡藩(黒田家)と佐賀藩(鍋島家)が
1年交代で務めていて、長崎には福岡出身者も多かったことから、
長崎の言葉は博多弁にかなり近いのだと教えて頂きました。
対岸に見えているのが、三菱造船のドックです。
今でも、ここで修理する船があるそうです。
こちらは、明治16年築の長崎地方裁判所長官舎だった建物。
居留地の外側に建てられた洋風の官庁建築として、長崎で唯一残る
貴重な建物なのだとか。
今はレトロ写真館となっていたので、中は見学してきていません。
こちらは、旧 ウォーカー住宅。
イギリス人のウォーカー兄弟は船員として長崎へきた人達で、お兄さんは、
グラバー商会、ホームリンガー商会の船を経て、岩崎彌太郎に請われ
郵便汽船三菱会社(今の日本郵船)で監督船長も勤め、その後は、グラバー
と共に、現在のキリンビールの支配人を務めるなど、活躍した外国人の一人
だったそうです。
弟のロバートは、兄同様に、郵便汽船三菱商会の船長などを務め、一旦は
イギリスに帰国したものの、明治31年に長崎に戻り、先日ご紹介した、
元ラムネ工場↓を運営していた人。
そして、こちらの建物↓は、その弟ロバートの次男が大正4年に購入し、
亡くなるまで住んでいた建物だそうです。
洋館なのに、屋根はどこか和風な要素もある、ちょっと不思議な建物です。
ロバートジュニアは、日本に帰化し、再婚して、息子が二人いたそうです。
第二次世界大戦中は憲兵の監視下に置かれ、経営が悪化。
戦後、商会復活を望むことなく亡くなったのだそうです。
南山手10番地にあった建物を、後に、こちらへ移築したもの。
元々の大きさはわかりませんが、グラバー園の中に移築されている建物の
中では、小ぶりな建物でした。
続きます。