私がまたまた藤田を知ったのは学生の時。今は無くなってしまいましたが、行きつけの中華屋にレプリカの「猫の絵」が飾られていたのがきっかけで知りました。。
変なボロボロの中華屋だけど、料理の腕は絶品。めちゃくちゃ癖のある大将で、ガラガラなのに、「今日はいっぱい」帰される。。何度かめげずに行ったら、入れてくれるようになり常連となった店です。。
最近、藤田の作品が日本でもみられるようになりましたが、しかし、日本に不利な説明がされていないのは私としても納得しがたい。。
藤田の死後、残された作品や著作権を管理したのは妻、君代夫人が、日本での藤田展に協力的ではなく、君代夫人が2009年に亡くなったあとから、ようやく本格的な藤田研究が始まったと言えます。
1886年、藤田嗣治は、東京都の医者の家に生まれます。幼少期から絵を描き、東京美術学校西洋画科に入学。しかし藤田の作風は不評で成績は散々なものでした。
当時、日本は黒田清輝をはじめ印象派で、これからの美術は印象派一色として、学校で教鞭を取っておりました。
そんな藤田は、印象派ばかり教える教師たちに疑問を抱いておりました。
藤田は、黒を使ったダークな自画像を描いて反発しました。
印象派は、モネとかルノワールなどが有名ですが、黒色を使わないのです。
太陽光に黒色は含まれていません。
印象派は、鮮やかな光を描くので、それに反する藤田の自画像をみた教師達は大激怒しました。当然、成績は悪くなったわけです。
そして藤田は、フランス行きを決めます。
パリでは、キュビズムやシュールレアリズムなど新しい20世紀の絵画が登場。その自由さに奔放さに影響を受けて作風が変わります。
そのうち戦後の好景気により、藤田の絵が高値で売れていきます。そして、北米、南来で個展を開き大成功。
しかし、世界は、大戦が始まります。
ドイツ軍にパリが占領されてしまう危機を感じた藤田は日本に帰国すると、従軍画家となります。
戦争が終わると、藤田は、戦争協力者としてターゲットとなり追及されます。GHQに取り調べをうけたり、同じ日本の仲間の画家からも妬みや批判、裏切りを受けます。
藤田は嫌気が差し、その後、日本を去ります。
「日本を私は捨てたのではない。
私は捨てられたのだ」と、
藤田は、のちに言っております。
「画家は絵だけ描いていればいい。
仲間喧嘩をするな。
はやく日本の美術界は、国際並になってくれ」
藤田は、フランスに戻り帰化。故郷に帰ることはありませんでした。
その後、カトリックの洗礼を受け「レオナール藤田」となり、晩年は宗教画を描く事が増え、絵に限らず拝礼堂の建設など手掛けていきます。壁画には鮮やかな壁画が描かれています。
居場所を求めて彷徨った藤田、翻弄された人生、最後は何を想ったのでしょうか。。
「私は80年の人生を贖うよ。
私の神は、私に力を与えてくれる。
終わった…。
だが、人生は美しいのだ。」
ちなみに、ポーラ美術館で、藤田の絵が展示されており、乳白肌の秘密がわかります。
さて、簡単にでしたが藤田の生涯、実は私も
日本を去る時、特に会社の連中からの壮絶な嫌がらせを受けたので、多少、重なって見える部分もあります。。
LAでただの引きこもりしている私のような猫に、まるでヒガミをぶつけてくる人もいました。。
「猫には猫なりの苦労もあるにゃ。。」
そんな人には猫の声は届くはずもなく、大事なのは、難しいかもしれませんが、
「自分の物差し」
を持ち続けることなのではないでしょうか。。
というわけで、日本に捨てられた画家。
「レオナール藤田」どこかでみかけたら、
少し足を止めてみてくれたら幸いです。