誰が?

 

 




 

 

すべてのご縁を大切にしています

Yukari 縁 🇬🇧です

 

 

 

 

この前の授業で

日本語は主語を省略しても

多くの場合

会話が成り立つと言うことを

仲間にシェアをしてね

 

 

 

ものすごく

びっくりされたよ❗️

 

 

 

 

その時

 

 

仮に英語のように

「私は」を英語で使うように

含めて話したとしたら

どんなかんじ?

 

 

と質問されたから

 

 

 

すごく違和感があるし

 

「私は」「私は」って

「我」がめっちゃ強い

と言うふうに聞こえると思う

 

と ワタシなりに

答えたのだけどね

 

 

 

 

 

文章や会話で

直接表現されていない

相手の真意を汲み取る

’行間をよむ’ ということを

 

 

日本語を話す私たちは

フツーにやっていることの

摩訶不思議さを

クラスのみんなは感じたみたい

 

 

 

 

 

察することを

会話の中で日常でしているから

 

 

「忖度」

という言葉もあるように

 

 

相手の気持ちや考えを

推し量ること

推察・推測することを

よくするし

 

 

 

この前のブログ記事

「小さな親切 溢れる日本」内に

書いたけどね

 

 

だからこそ

利用者の立場で考えられた

表示やサービスがあるのだから

とても良いところ・才能でも

あるのだけれど

 

 

 

同じ国に住むとはいえ

感じ方 考え方 

経験していることは

皆それぞれ違う唯一無二の存在

 

 

 

 

主語が明確でないことで

 

’誰の考え’ なのか

’誰の感情’ なのか 

 

が曖昧になりがちで

 

 

さらには

 

 

「忖度」で

本人と忖度した人とのズレが

生まれてしまうことも

実際にあるのよね

 

 

 

 

 

’主語を省略することの当たり前’

にちょっと光を当てて

それぞれ

主語に意識してみると

物事の捉え方にも変化が起きるよ

 

 

 

これが習慣化されると

「みんなが…」「普通は…」

という ’決まり文句’ を

今まで気にせず使っていた自身に

気づくと思う