走る人  ちょっと寄り道した十楽寺。

こじんまりしたお寺ですが、立派な丈六(約4.8m)のご本尊さまや珍しい摩耶夫人像など見ごたえのある仏さまがたくさんおられました。

 

(本尊・阿弥陀如来坐像)

 

 

48坂下宿(さかしたしゅく)
鈴鹿峠(すずかとうげ)の麓(ふもと)に位置し、宿場の名もその立地に由来します。慶安三年(1650)の大洪水により壊滅し、1㎞ほど下流に移転し復興されました。鈴鹿峠を往来する多くの人で賑わい、東海道難所のひとつである鈴鹿峠を控え参勤交代の大名家などの宿泊も多かった。明治二十三年(1890)関西鉄道の開通による通行者の激減とともに宿場としての役割を終えました。
(現・三重県亀山市関町坂下)
伊勢国 日本橋から107里29町7間(約423.4km)

<東海道五拾三次 筆捨嶺(ふですてみね)>
左手にそびえるのは岩根山(いわねやま)。室町時代の著名な画家・狩野元信(かのう もとのぶ)があまりの美しさに絵も描けないといって、筆を捨てたという伝説から「筆捨山」と呼ばれるようになりました。右手には茶店があり、ここから眺望を楽しむ人々の姿が描かれています。

【鈴鹿馬子唄(まごうた)会館】
鈴鹿馬子唄や坂下宿の資料を展示。


北側には、旧坂下尋常高等小学校校舎〔登録有形文化財〕があります。現在は、青少年のための宿泊研修施設「鈴鹿峠自然の家」として活用されています。


【鈴鹿馬子唄発祥之地碑】
東海道の難所のひとつ鈴鹿峠を、旅人や荷物を乗せて安全に和やかに越していけるよう願いを込めて、馬子が馬の首に付けた鈴の音に合わせて唄われた仕事歌が「馬子唄」として残され、歌い継がれてきました。

鈴鹿峠の山道はかなり険しく急勾配で、さらに旅人や飛脚たちを悩ませたのは、その天気の変わりやすさ。それを民謡「鈴鹿馬子唄」では、このように歌われています。

『坂は照るてる鈴鹿はくもるあいの土山雨が降る』
(坂下宿では快晴、鈴鹿峠では曇り、その先の土山宿では雨が降る、という内容(解釈には諸説あり)。)

【前田屋】
関宿名物「志ら玉」はここで製造しています。


【法安寺】
庫裡の唐破風造の玄関は松屋本陣の玄関を移築したもの。坂下に残る唯一の本陣遺構。


【片山神社】
鈴鹿峠の守護神・鈴鹿大明神を祀り、坂下宿の氏神でした。付近は豊かな水に恵まれ、伊勢神宮へと向かう斎王が滞在して禊(みそぎ)を行った鈴鹿禊の地で、後に巫覡(ふげき:神仏と人とのなかだちをする人)の徒(と)が祓(はら)えを行う神聖な地ともなりました。


【芭蕉句碑】
貞享二年(1685)芭蕉は伊賀を出立し、鈴鹿峠を越えて江戸へ向かいました。

『ほっしんの 初(はじめ)にこゆる 鈴鹿山』

【鏡石】
山賊が身を隠し岩に映った旅人を襲ったところから「鬼の姿見」とも呼ばれました。山火事に遭い輝きは失われています。


【万人講常夜燈】
金毘羅参りの講中が道中安全を祈願して建立。重さ38t、高さ5.44mの威容を誇る自然石の常夜燈。



49土山宿(つちやましゅく)  
平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、土山は難所を控える宿駅として発展してきました。江戸幕府が土山を宿駅に指定してからは、さらに鈴鹿峠を控え、御代参街道(ごだいさんかいどう:土山宿-中山道小幡間を結ぶ)の分岐点として栄えました。
(現・滋賀県甲賀市土山町北土山/土山町南土山)
近江国 日本橋から110里11町7間(約433.2km)
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近江国(おうみのくに)
現在の滋賀県。国名は琵琶湖(びわこ)が古くは近淡海(ちかつおうみ)と呼ばれたことに由来します。



<東海道五拾三次 春之雨>
土山は、京に向かう最後の難所、八百八谷といわれた鈴鹿峠を越えた所にあります。この付近は年間雨量が多く、うっそうとした森林を育て、木材の産地として有名でした。しとしとと降る春雨に打たれながら、大名行列が田村川架かる橋を渡っている様子を、高い視点から描いています。左手に見えるのは田村神社の社です。

(海道橋)
安永四年(1775)に架けられた田村永代板橋を復元。浮世絵 春之雨は、この橋を渡る大名行列を東側から描いたものです。

【十楽寺】
本尊は日本最大級の丈六阿弥陀如来坐像。

湖国甲賀三大佛 ~ 十楽寺(じゅうらくじ) ~

【田村神社】
鈴鹿山の山賊を退治した坂上田村麻呂を祀っています。北土山の鎮守。

田村麻呂鬼退治伝説の社 ~ 田村神社(たむらじんじゃ) ~

【扇屋伝承文化館】
お六櫛(おろくぐし)を商う商家でした。現在は、扇屋に残されていたお宝や地元工芸品の展示、また土山宿特産品の販売が行われています。
*お六櫛:木曾街道藪原の宿(長野県木曾郡木祖村)の名物のすき櫛。江戸時代、享和(1801-04)頃、お六という女が作りはじめて、ひろまったという。

扇屋伝承文化館

【東海道伝馬館】
東海道や土山宿の情報発信の拠点施設。東海道や宿・伝馬制度をテーマにした展示を行っています。


【土山宿本陣跡】
今も住居として使用されています。


【淀藩領界石】
「従是東淀領」と刻む。淀藩の飛地でした。


手裏剣 淀藩 手裏剣
元和九年(1623)、松平定綱(さだつな)が遠江掛川藩より3万5千石で入ったことにより立藩。その後は、永井氏・戸田氏・松平(大給)氏が入り、享保八年(1723)の稲葉正知(まさとも)からは稲葉氏12代が世襲。第12代(最後)の藩主・稲葉正邦(まさくに)の時に、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍が朝廷によって朝敵とされたため、淀城の城代は敗走する旧幕府軍に城門を開かなかった。これが鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北の一因とされています。正邦は旧幕府瓦解時の老中であったため、新政府の命令で慶応四年(1868年)謹慎処分となったが、その後、許されて京都警備を任されます。翌年の版籍奉還により藩知事となり、明治四年(1871)の廃藩置県で免官されました。淀藩は廃藩となり、その所領は各近辺の府県に組み込まれることとなった。
藩庁:淀城 石高:10万2千石 上屋敷:千代田区神田小川町
領地:山城国久世郡(現・京都府京都市伏見区淀本町)

【東海道土山今宿碑】


次回は、水口宿から。