今からさかのぼること2016年3月10日。東日本大震災から5年を迎える一日前に、津波が襲来し大きな被害を受けた仙台の地を私は訪れていた。実は最初にいた会社で仙台支社の立ち上げでずっといた時期があり、過酷なブラック労働で心がすり減ると、夜にふらりと車で出かけて七北田川の堤防沿いの道を走り、何回も夜の海を見に行っていたのだ。その複雑な思いが交差する地には東日本大震災で巨大な津波が襲来し、たくさんの人々の運命を変えてしまった。2011年3月の時は、地元に残り当時いた組織で対策を行う必要があったため、なかなか現地へはいけないでいた。あの思い出が残る場所がどうなったのか、この目で見てみたかったのだ。

 

仙台には「語り部タクシー」という制度があり、タクシーを時間単位で乗せていただき、いろいろな場所へ案内していただいた。仙台中央タクシー株式会社のドライバー菊池さんのもと、まずは七北田川河口付近へ連れて行ってもらった。菊池さんも津波からの生き残りであり、避難所である学校の体育館に案内されたが、「ここは低いから校舎の上に逃げよう」とまわりの人を引き連れて学校の上階へ行き助かった方だった。

 

 

津波が襲来したエリアからは空き地が目立つようになる。どこまでも平らな場所なので、何か所か「津波避難タワー」が作られていた。

 

いざというときには、入り口を壊して上階に逃げる仕組みだ。

 

タクシーで見せていただいた、2010年9月の七北田川河口付近の写真。私が行っていたころとほとんど変わらない風景。

 

津波によって、川の形と流れも大幅に変わってしまった。そして街並みも。

 

復興工事が進んでいるおかげで、回り道がいたるところにある。タクシーの運転手さんでも、日によってどんどん変わるため行かないとわからないことがあるそうだ。

 

流された家のコンクリート土台。ここの人は

 

 

仙台市立中野小学校跡地

 

 

河口が近づいてきた。こんな景色、見覚えがある。

 

 

たしかこのあたりに小さな漁港があり、船溜まりのところでのんびりした記憶が残っている

 

 

河口のあたりには大きな古いお屋敷が何軒もあり、大きな松の木も植わっていた。立ってはいるが枯れてしまったもの。斜めになって頑張って生きている木もあった。

 

 

日和山。標高3m。海沿いの小高い丘で、日本で一番低い山。一回日本二位になったものの、津波で標高がさらに低くなってしまい再び日本一に返り咲いた。

 

海岸の浅瀬は蒲生干潟というようだ。5月ぐらいになると潮干狩りでにぎわうとか。

 

のんびりした景色だが、それだけでない記憶も私は知っている。

 

波の力で手すりがすべて内陸方面に曲がってしまった。

 

 

 

 

 

今、こうやってブログで記事にしてみても、もやもやして言葉にならないことがある。大変な時の自分を支えてくれた景色。そして美味しいごはんを出してくれたお店の人とか、あの人たちは。そしてあの時、もしここに自分がいたら。

 

 

 

 

高砂橋で七北田川を渡り、タクシーは名取市方面へと向かった。