市川章彦のブログ

市川章彦のブログ

唐沢の滝で縄文の胎内へ、不動滝で不動明王の慈愛へ。戸隠を舞台に魂を剥き出しにする禊。審判官を葬り、真実の自分という「岩戸」をひらいた市川章彦の記録。医療とエロを同一線上で捉え、偽りなき命の歓喜と日々の思いを全力で綴ります。

新しい生命を生み出す「交尾」を、良くないもの、恥ずかしいもの、汚らわしいもの、と否定する動物はいない。この世の生き物の中で唯一「人間」だけが、この神聖な行為をネガティブなものとして捉えている。


何故か? それは、そう教えられてきたからだ。あなたにそう教えた人も、また誰かから教えられ、その連鎖がずっと続いてきただけ。


宗教の物語もそうだ。キリスト教ではイブがアダムを誘惑した罪深き存在として描かれ、神道では女性から誘ったまぐわいは失敗として語られる。だが、そんな話は真っ赤な嘘だ。


本来の「まぐわい」とは、この世で出会えた奇跡を喜び合い、互いの「いのち」を祝福し合う儀式だ。二つの「いのち」を溶け合わせ、一つになる。それは、愛する人と共に**「大いなる源」**を体験する、この世で最も素晴らしい行為なんだ!


動物にとっての性は、種を繋ぐための「プログラム」に過ぎない。しかし人間は、進化の過程でそれを「生殖」のためだけのものから、「精神的な結合」や「至福」へと昇華させた。人間に発情期がないのは、まぐわいが「魂の合一」という、極めて高度で精神的な役割を持つようになったからだ。


今、俺が感じている「創造主」としての感覚。実は、性エネルギーと、何かを創り出すエネルギーは、根源で同じものだ。


• まぐわい: 二つのエネルギーが混ざり、新しい至福を産む。


• 表現(日記や歌): 自分と世界が混ざり、新しい価値を産む。


さらに人間は、命を産み出さない場所にさえ、愛を見出す。

汚らわしいと遠ざけられ、社会のタブーとされる場所にこそ、実はエゴを完全に破壊し、すべてを許し合う「究極の信頼」が眠っている。


アナルを開き、受け入れる。

それは肉体的な快感を超えた、魂レベルの「無防備な信頼」の表現だ。

綺麗も汚いも、善も悪も超えた、ただの「いのち」としてのぶつかり合い。その境界線が消えた時、人は「我」を忘れ、一瞬で**「宇宙の視点」**へと吹き飛ばされる。


生殖という「生物の枠」をはみ出してまで、私たちが繋がろうとするのは、私たちが単なる動物ではなく、愛によってあらゆるタブーさえも「光」に変えてしまう創造主だからだ。


「鏡(かがみ)」から「我(が)」を抜けば「神(かみ)」になる。

まぐわいの絶頂、深い一体感の中では、まさに「我」は消えてなくなる。人間はまぐわいを通じて「我」を消し、再び**「源」**と繋がる感覚を、無意識に求めている。


俺が「狂ったようなまぐわい」の中に幸せを感じるのは、それが単なる肉体の欲求ではなく、「自分という存在を全開にして、宇宙の根源的な悦びと一致したい」という、魂のピュアな欲求だからだ。


人間は、毎日でも悦びの根源に触れていたい、創造していたい生き物なのだから。


かつて、俺が絶望の淵にいたとき、魂の光を救ってくれたのは、目に見える世界を超えた**「生命の本質」**についての教えだった。

そして、魂の闇を救い、生きる悦びを思い出させてくれたのは、汚れとされる場所を「愛」として描き切った、ある一人の作家の物語だった。


光も闇も、すべてが愛。

その両方を抱きしめたとき、人間は本当の意味で「自分」という**「本質の輝き」**と結婚できるのだと思う。


自分自身との結婚(一致)ができると、いつもの何気ない道が、輝く道に変わる。

「生きてる」実感が自分の奥深くから湧き上がってくる。

その時、あなたの本当の人生が始まるんだ。





この数日間、俺は自分自身の「闇」と対峙し、徹底的に自分自身と向き合ってきた。

その過程で、俺はついに「0」の自分と一致し、「ど変態」である自分自身とも結婚した。

今、俺は、人生で一番、自分自身を愛している。


ここまで来られたのは、紛れもなく君のおかげだ。

君と出会えたことで、俺は自分から目を逸らさず、自分の本当の姿を見つめることができた。


以前の俺は、君にどう思われるかを恐れ、自分を隠していた。

でも今は違う。

自分の「影」も「光」も、全てを受け入れた。俺は、今の俺を誇りに思っている。


そして、今の俺は、飾りのない言葉で君にこう伝えたい。


「会いたい」


これは、君がいなきゃ俺が完成しない、という意味じゃない。

俺はもう、自分自身で満たされている。

だからこそ、この満ち足りた自分として、君と笑い合いたい。

ただ純粋に、君という存在を感じたいんだ。



「自分と向き合う」という言葉をよく聞くけれど、一体、自分の「何」と向き合うのか?

答えは、自分のポジティブな側面なんかじゃない。自分の奥底にある「ネガティブ」や「闇」、目を背け続けてきた泥のような部分だ。


その影(シャドウ)と向き合うことで、ようやく見えてくる真実がある。なぜ人生が思い通りにいかないのか。なぜ世間の「普通」や「常識」と、自分の「好き」がこんなにもズレているのか。

向き合い続けると、今まで自分が追いかけていた「望み」すら、実は自分の本心ではなく、世界から与えられた「普通」「常識」という名の洗脳に「そう思わされていた」だけだと気づくんだ。


その事実に気づいた時、戦慄が走る。

自分は今まで、他人が決めたゴールに向かって、手に入れても手に入れても幸せを実感できないまま、永遠に終わらないランニングマシンを「走らされていた」ことに気づくからだ。


「10人10色」という言葉があるけれど、実際は人の数だけ、1万通り、100万通りの「幸せ」があるはずだ。それなのに、世の中はまるで唯一の正解があるかのように「普通」「常識」という幸せを押し付けてくる。


自分自身の「本当の望み」を手に入れるために必要なこと。

それは、まず「普通」という名の「思わされていた望み」に気づき、その洗脳から目を覚ますこと。そこから抜け出した場所にしか、あなたの本当の人生は始まらない。



今年初めての志賀高原、横手山ドライブイン。

目の前に広がるこの圧倒的な雪山と空の青は、まさに今の俺の心の中そのものだ。


ここで改めて感じたことがある。

「自分自身と結婚(一致)する」というのは、綺麗な部分だけを愛することじゃない。本当の「一致」とは、自分自身の奥底に押し込めた、暴れ馬のような「衝動」を認め、受け入れることだ。



なぜ今、あなたがこれほど苦しいのか。

それは本来「変態(個性的)」で、「ど変態(超個性的な)」、夜空に眩しく輝く星のように燃え盛る炎のようなあなたが、知らず知らずのうちに「常識」や「普通」という洗脳にあい、その輝きを無理矢理に魂の深淵へと押し込めているからだ。


でも、もう終わりだ。その洗脳に気づき、本来の輝きを取り戻したあなたを、世界はもう二度と放っておくことはできない。



実は、「変態」の本当の意味は「個性的」。そして「ど変態」の本当の意味は「超個性」だ。

世間の「普通」という目線で見れば、それは隠すべきものかもしれない。でも、その「超個性」を汚いものとして蓋をし続けることは、自分の中にある最高に魅力的な光を消し続けることと同じだ。


誰のためでもない、自分自身のために。

その抑えきれない、剥き出しの「衝動(超個性)」を、自分が一番最初に「これも自分の光だ」と認めて、抱きしめてあげること。



そうしてあなたが放つその真っ直ぐな光を求めていたパートナーが、必ずあなたの前に現れる。


俺は、もう二度と自分を偽らない。

自分のすべてを受け入れたとき、世界は一瞬で変わる。この広大な景色のように、世界はあなたを、ただ優しく、そして祝福と共に包み込んでくれるんだ。





俺たちがこの世でやるべきこと。それは「自分自身と結婚(一致)する」こと、ただ一つだと思う。

赤ちゃんの頃は、みんな自分と完璧に繋がってた。でも大人になる過程で、教育や常識という名のもとに、いつの間にか自分自身をジャッジする「他人目線」が心の中に居座ってしまったんだ。

これが、苦しみの正体。

だから、もうその「分離」は終わりにしよう。

自分の中にある「べき・ねばならない」の鎧を、一つずつ脱いでいく。

瞑想とか、静かな時間とか、自分と向き合う方法はなんでもいい。

大切なのは、自分自身の本音(0の自分、ど変態な自分)を、自分が一番最初に受け入れてあげること。

「あ、そうだった。俺は俺と一致するだけでよかったんだ」

って気づいた瞬間、人生はとてつもなく楽で自由なものになる。