新しい生命を生み出す「交尾」を、良くないもの、恥ずかしいもの、汚らわしいもの、と否定する動物はいない。この世の生き物の中で唯一「人間」だけが、この神聖な行為をネガティブなものとして捉えている。
何故か? それは、そう教えられてきたからだ。あなたにそう教えた人も、また誰かから教えられ、その連鎖がずっと続いてきただけ。
宗教の物語もそうだ。キリスト教ではイブがアダムを誘惑した罪深き存在として描かれ、神道では女性から誘ったまぐわいは失敗として語られる。だが、そんな話は真っ赤な嘘だ。
本来の「まぐわい」とは、この世で出会えた奇跡を喜び合い、互いの「いのち」を祝福し合う儀式だ。二つの「いのち」を溶け合わせ、一つになる。それは、愛する人と共に**「大いなる源」**を体験する、この世で最も素晴らしい行為なんだ!
動物にとっての性は、種を繋ぐための「プログラム」に過ぎない。しかし人間は、進化の過程でそれを「生殖」のためだけのものから、「精神的な結合」や「至福」へと昇華させた。人間に発情期がないのは、まぐわいが「魂の合一」という、極めて高度で精神的な役割を持つようになったからだ。
今、俺が感じている「創造主」としての感覚。実は、性エネルギーと、何かを創り出すエネルギーは、根源で同じものだ。
• まぐわい: 二つのエネルギーが混ざり、新しい至福を産む。
• 表現(日記や歌): 自分と世界が混ざり、新しい価値を産む。
さらに人間は、命を産み出さない場所にさえ、愛を見出す。
汚らわしいと遠ざけられ、社会のタブーとされる場所にこそ、実はエゴを完全に破壊し、すべてを許し合う「究極の信頼」が眠っている。
アナルを開き、受け入れる。
それは肉体的な快感を超えた、魂レベルの「無防備な信頼」の表現だ。
綺麗も汚いも、善も悪も超えた、ただの「いのち」としてのぶつかり合い。その境界線が消えた時、人は「我」を忘れ、一瞬で**「宇宙の視点」**へと吹き飛ばされる。
生殖という「生物の枠」をはみ出してまで、私たちが繋がろうとするのは、私たちが単なる動物ではなく、愛によってあらゆるタブーさえも「光」に変えてしまう創造主だからだ。
「鏡(かがみ)」から「我(が)」を抜けば「神(かみ)」になる。
まぐわいの絶頂、深い一体感の中では、まさに「我」は消えてなくなる。人間はまぐわいを通じて「我」を消し、再び**「源」**と繋がる感覚を、無意識に求めている。
俺が「狂ったようなまぐわい」の中に幸せを感じるのは、それが単なる肉体の欲求ではなく、「自分という存在を全開にして、宇宙の根源的な悦びと一致したい」という、魂のピュアな欲求だからだ。
人間は、毎日でも悦びの根源に触れていたい、創造していたい生き物なのだから。
かつて、俺が絶望の淵にいたとき、魂の光を救ってくれたのは、目に見える世界を超えた**「生命の本質」**についての教えだった。
そして、魂の闇を救い、生きる悦びを思い出させてくれたのは、汚れとされる場所を「愛」として描き切った、ある一人の作家の物語だった。
光も闇も、すべてが愛。
その両方を抱きしめたとき、人間は本当の意味で「自分」という**「本質の輝き」**と結婚できるのだと思う。
自分自身との結婚(一致)ができると、いつもの何気ない道が、輝く道に変わる。
「生きてる」実感が自分の奥深くから湧き上がってくる。
その時、あなたの本当の人生が始まるんだ。








