市川章彦のブログ

市川章彦のブログ

唐沢の滝で縄文の胎内へ、不動滝で不動明王の慈愛へ。戸隠を舞台に魂を剥き出しにする禊。審判官を葬り、真実の自分という「岩戸」をひらいた市川章彦の記録。医療とエロを同一線上で捉え、偽りなき命の歓喜と日々の思いを全力で綴ります。



俺たちがこの世でやるべきこと。それは「自分自身と結婚(一致)する」こと、ただ一つだと思う。

赤ちゃんの頃は、みんな自分と完璧に繋がってた。でも大人になる過程で、教育や常識という名のもとに、いつの間にか自分自身をジャッジする「他人目線」が心の中に居座ってしまったんだ。

これが、苦しみの正体。

だから、もうその「分離」は終わりにしよう。

自分の中にある「べき・ねばならない」の鎧を、一つずつ脱いでいく。

瞑想とか、静かな時間とか、自分と向き合う方法はなんでもいい。

大切なのは、自分自身の本音(0の自分、ど変態な自分)を、自分が一番最初に受け入れてあげること。

「あ、そうだった。俺は俺と一致するだけでよかったんだ」

って気づいた瞬間、人生はとてつもなく楽で自由なものになる。


愛について。


※その後、温泉に入って気づいたことがあったので、少しだけ本文を追記・修正しました。


ずっと「愛」って何だろうと考えてきた。

昔は、「好き」という気持ちの最大級・MAXの状態が「愛」だと思っていた。でも、後にそれは「愛」ではなくて「執着」だったことに気づかされた。

「愛」という漢字をよく見てほしい。「受ける」という漢字の真ん中に、「心」が包み込まれている。結局、愛するっていうのは、自分の心をまるごと受け入れることなんだ。

ポジティブな自分は受け入れやすい。でも、ネガティブな自分となると、途端に苦手になる。だけど、ネガティブな心を否定するってことは、自分自身の半分を嫌ってるのと同じだ。

「夜明け前が最も暗い」という言葉がある。

今、自分の暗闇に直面して苦しいのなら、それは夜明けが近い証拠だ。その闇こそが、光へと変わるための最後の手続きなんだから。

白と黒、光と闇、善と悪、美と醜、愛と憎。

自分の中に存在する、そうした「陰」の部分。それらを受け入れれば受け入れるほど、人は深く、本当の意味で自分を好きになれる。

特に、自分の中の一番ディープな部分。

社会的な正しさや常識からはみ出した、自分でも受け入れがたいような「衝動」を、自分だけは見捨てずに受け入れることがめちゃくちゃ大事だ。

たとえ世界中の誰もがそれを否定したとしても、自分だけは決してその衝動を否定しない。だって、その本当の本音の「好きなこと」を認めて抱きしめてあげられるのは、この広い宇宙で自分自身しかいないんだから。

そうして自分を好きというエネルギーが輝きとなって溢れ出した時、それは磁力となり、魅力となり、結果として様々なものや出来事を引き寄せる。

今日、家の近くの古墳がある丘で日の出を撮った。

目の前には、これから昇る「生」のエネルギーと、歴史を刻んだ「死」の眠る古墳があった。

この景色を見た時、ふと思った。

俺たちは、生と死を内包した時間を生きているんじゃない。いや、生かされているんだ。

そう思えば、朝の温泉の駐車場でイラッとしたことも、券売機で待たされて感じた苛立ちも、すべてが愛おしい。湯上がりの「こんにちは」の挨拶でホッとした心も、王将で食べた餃子の味も、家族連れを見た時の幸せな気分も。

すべては生と死のサイクルの中で、一瞬だけ光るギフトだと思う。

だから、喜怒哀楽、どんな自分も、どんな時間も、否定せず愛し抜く。

それは誰かに愛してもらうための手段じゃない。自分で自分を愛せるようになったとき、結果として、あなたは世界から愛されるようになる。

そうして自分を愛し抜いた人間は、抗いようもなく輝いている。

良きパートナーと巡り合い、いい恋愛をして、いい「まぐわい」をしている人間が眩しいのは、きっとそういうことなんだ。


俺はそう思う。



今日、久しぶりにこの海を歩いた。

保育園の頃、溺れかけて見知らぬ誰かに命を救われた場所。

そして、数年前の冬、自分が自分であるために何度も禊(みそぎ)で冷たい波に浸かった場所。

この海は、俺の始まりと、魂の浄化の記憶が刻まれている。

そして今日、この海を歩きながら、昨日自分が何をしたのか、改めて深く噛み締めていた。

昨日、オープンマイクという舞台に立ち、俺は自分の中に巣食っていた「審判官」を殺した。

ずっと自分をがんじがらめに縛り付けていた価値観があった。「普通でなければならない」「常識からはみ出してはいけない」「自分の中の最も暗い衝動を受け入れてはいけない」。

それらをすべて、舞台という場所でさらけ出し、叫び尽くした。

死ぬほど怖かった。みんなに引かれるのではないか、軽蔑されるのではないか。そう思って震えていた。

しかし、実際に舞台で叫んだ時、そこにいたみんなは俺を否定しなかった。彼らはただ静かに、あるいは笑いながら、そこにいた。

その時、ふと思い出したことがある。

かつて自分が、誰かの人生をかけた告白を聞いていた時、実は自分も同じように、何も特別な判断を下さず、ただ聞いていただけだったことを。

そう、みんな、誰かのことなんてそんなに深くは見ていない。

俺が一番恥ずかしいと思っていたことは、他人の目にはそれほど特別なことではなかったんだ。

自分という人間にしがみつき、主役として振る舞おうとするから、人生は苦しくなる。

他人の目という幻影に怯えるのではなく、自分自身を、まるで「他人」を観察するように見つめる。

そう決めた時、驚くほど世界が軽くなった。

昨日の舞台の後、何人かが「自分もさらけ出したくなった」と言ってくれた。

俺が自分を縛り付けていた檻を壊したことで、誰かの檻をも壊すきっかけになったのかもしれない。

もし、「これは人に話せない」という秘密を抱えている人がいるなら、伝えておきたい。

それを話せば話すほど、あなたは自分自身を「他人事」として笑えるようになる。

自分を客観視できた時、魂は本当の意味で自由になる。

昨日、審判官を殺した。

今日、この海を歩き、俺はまた一つ、新しくなった。

もう、何からも逃げない。

俺は、ただ俺として、この美しい世界を自由に生きていく。









医療とエロは、同一線上のものだ。


心と身体が「0」からマイナスへ向かうとき、そこには病が生じる。それを「0」に戻す行為が医療。

一方で、「0」からプラスへ向かって心と身体を動かすのがエロであり、それをより大きな喜びに昇華させるのが、その人独自のエロの行為だ。


心が生きるのが、性。


病気に多様な種類があるのと同じように、エロにも多様な表現があるのは当たり前のこと。