<<DOGRUN>>

写真は2014年2月。17時。氷点下14度。犬舎エリア。交感対話場面。
≪≪ 2008年1月の記事を再掲 ≫≫
「ドッグラン」では初対面の犬たち、人たちと出会います。
犬が普段と違う環境に入ったとき、
普段生活では見られなかった隠された個性が発揮されることがあります。
犬は状況によって、さまざまな反応行動を表現します。
ドッグランは、予期せぬ事態の宝庫なのです。
そこでの注意点を手短な文章に書くことは困難ですが、
極力簡潔に要点のみを記してみます。
犬の動きは非常に素早いので、
犬が行動に移った時点では対処が間に合いません。
したがって飼主は常に「予測」していく必要があります。
瞬間瞬間に、次次と、見て、感じて、予測していくのです。
つまり「予測の連続」なのです。
そして多頭数になるほど、予測の連続は重大さを増すのです。
アクシデントの予感の瞬間に「その場の気配と流れ」を転換します。
例えば「ひと声かける」「近寄る」「手をたたく」などの刺激だけでも、
例えばそれだけでも、その場の空気を変えることができます。
ただし、その「予感」とは、
予測の意識を持っているからこそ生まれ出るものなのであり、
ただ漠然と眺めているだけでは、予感力は発動されないのです。
犬たちの間には暗黙のルール、暗黙の礼儀があります。
例えば「間合い」(距離感)も大事です。
距離が詰まって間合いが取れなくなると、そこに緊張の空気が発生します。
それについて無関心・無配慮な飼主が多いようですが、注意すべきです。
飼主は空気を読み、その緊張感の程度と種類を素早く分析するのです。
初対面の犬同士の場合には慎重さが要求されます。
「あいさつ」はスムーズに進んだか??
どの程度に「相性」が合っているのか??
そこに緊迫感が隠されていないか??
*馴れ合った犬同士の場合でも注意は必要です。
犬たちの月齢、年齢、意識の変化などによって、
状況は絶えず移り変わっているからです。事情の変化があるのです。
「遊び」の場合であっても、常に観察が求められます。
興奮がエスカレートしすぎていないか??
顔付きが変わってきていないか??
片方の犬が怯えたり、嫌がったりしていないか??
集団で一頭の犬を追いかける「ゲーム」が長く続きすぎていないか??
これらはアクシデントの一歩手前の臨界点とも言える状況です。
一瞬の油断も許されませんが、
神経質にならずに自然体で洞察して対処します。
また犬たちはクライマックスの時には、
紙一重のきわどい動きの中で交錯し、疾走します。
ですから「足場に危険は無いか??」、
「危険となり得る障害物は無いか??」を観察します。
「遊びの格闘」の時には、
顔付きも身体表現も、本気の時とはまるで違うので判断がつきますが、
それでも観察を怠ってはなりません。そして「潮時」を見計らうべきです。
存分に躍動を消化した頃合いに、
楽しい雰囲気のうちに「終了」の合図を出すのです。潮時ということです。
また若い犬たちは盛んに「格闘の練習」をやります。
遊びとして運動として、そしてお互いの力の確認として格闘するのです。
しかし興奮性の犬や闘志の強い犬は要注意です。
尾を高く上げ、頭を高くかかげ、耳を強く前に立たせ、
唇が強く締まり、目付きが本気の色に変わってきたら厳重に注意です。
そこで一度彼らの気分を転換させるべきです。
ボルテージが上がり切る前に、空気を変えるのです。
※あるいは、そこで「終了」とする場合もあります。
遊びの範囲であっても、
骨格・骨量の違う犬たちが激しいバトルゲームを繰り広げる時には、
思わぬケガが発生する可能性があるので要注意です。
軽い骨格の犬は、
「スピードに溢れた重い骨格の犬」からの衝撃で、
ダメージを受けることがあるので、骨折も起こり得るので、
頃合いを見計らって「動きのテンポ」を落とさせることも必要です。
※ほんの些細な何かが引き金となって、
本気の闘争に発展することがあります。
しかし多くの場合は「予兆」がありますので、
飼主はそれを感知した瞬間に、
その場の「流れ」を変えなければなりません。
背中の毛の立ち具合や尾の様子、
目付き、耳の様子、唇の様子、首と頭の姿勢などを常に観察し、
どんな瞬間でも即座に対応できるように心を準備しておくべきです。
対処の時、もし片方の犬を「抱きかかえる」場合には要注意です。
抱えるならば犬の尻部にしっかりと手を回し、
後ろ足も包み込むようにして、なおかつお腹を隠すようにして、
要するに犬の下半身全体を守るようにしながら、
相手の犬に対して「半身の姿勢」をとりながら、
相手の犬を視界に入れながら距離を開けていく訳ですが、
いつでも身体を捻って相手の犬を捌けるように心構えしながら移動します。
何故なら相手の犬に悪気が無くとも、
「抱えられた犬」は、
犬たちにとっての「興味をそそられる対象」になりがちなので、
相手の犬は立ち上がって抱えられた犬の様子を確認したがったり、
「ちょっかい」を出したがったりする場合もあるのですが、
両者のこの不自然な位置関係と姿勢により、
例えば相手が軽く噛んだつもりであっても、
意外なケガを招く危険性があるからです。
※抱える犬が多少大きくとも、
やり方次第でその犬を抱いてカバーすることは可能です。
飼主は身体に「軸心」を通した意識を持ち、
中心に力を寄せ、抱えながらも脇を絞るような感じで、
「身体全体の全身力」で犬の体重を受け止めるのです。
・・これらのごとくに観察は重要なのですが、
かといって飼主は「神経質な気配」を表現してはなりません。
その空気は伝播し、必ず犬たちにも伝わり、
その場に必要以上の緊張を生んでしまうからです。
飼主はあくまでも悠然とおおらかに、
そして例え動揺の中にあっても沈着の気配を保つことが肝心なのです。
飼主はいつでも反応の準備をしておきながら、
沈着泰然を心がけることが肝心なのです。
※また犬に限らず動物たちは「不調和な挙動や気配」に対して敏感です。
それに対して本能的な違和感を覚え、
不安な気持ちになったり警戒心を起こしたりします。動物達は敏感です。
※なお、その場に人の統率者が居るのと居ないのとでは、
状況は全く変わります。全く変わるということを、肝に銘じるべきです。
犬が普段と違う環境に入ったとき、
普段生活では見られなかった隠された個性が発揮されることがあります。
犬は状況によって、さまざまな反応行動を表現します。
ドッグランは、予期せぬ事態の宝庫なのです。
そこでの注意点を手短な文章に書くことは困難ですが、
極力簡潔に要点のみを記してみます。
犬の動きは非常に素早いので、
犬が行動に移った時点では対処が間に合いません。
したがって飼主は常に「予測」していく必要があります。
瞬間瞬間に、次次と、見て、感じて、予測していくのです。
つまり「予測の連続」なのです。
そして多頭数になるほど、予測の連続は重大さを増すのです。
アクシデントの予感の瞬間に「その場の気配と流れ」を転換します。
例えば「ひと声かける」「近寄る」「手をたたく」などの刺激だけでも、
例えばそれだけでも、その場の空気を変えることができます。
ただし、その「予感」とは、
予測の意識を持っているからこそ生まれ出るものなのであり、
ただ漠然と眺めているだけでは、予感力は発動されないのです。
犬たちの間には暗黙のルール、暗黙の礼儀があります。
例えば「間合い」(距離感)も大事です。
距離が詰まって間合いが取れなくなると、そこに緊張の空気が発生します。
それについて無関心・無配慮な飼主が多いようですが、注意すべきです。
飼主は空気を読み、その緊張感の程度と種類を素早く分析するのです。
初対面の犬同士の場合には慎重さが要求されます。
「あいさつ」はスムーズに進んだか??
どの程度に「相性」が合っているのか??
そこに緊迫感が隠されていないか??
*馴れ合った犬同士の場合でも注意は必要です。
犬たちの月齢、年齢、意識の変化などによって、
状況は絶えず移り変わっているからです。事情の変化があるのです。
「遊び」の場合であっても、常に観察が求められます。
興奮がエスカレートしすぎていないか??
顔付きが変わってきていないか??
片方の犬が怯えたり、嫌がったりしていないか??
集団で一頭の犬を追いかける「ゲーム」が長く続きすぎていないか??
これらはアクシデントの一歩手前の臨界点とも言える状況です。
一瞬の油断も許されませんが、
神経質にならずに自然体で洞察して対処します。
また犬たちはクライマックスの時には、
紙一重のきわどい動きの中で交錯し、疾走します。
ですから「足場に危険は無いか??」、
「危険となり得る障害物は無いか??」を観察します。
「遊びの格闘」の時には、
顔付きも身体表現も、本気の時とはまるで違うので判断がつきますが、
それでも観察を怠ってはなりません。そして「潮時」を見計らうべきです。
存分に躍動を消化した頃合いに、
楽しい雰囲気のうちに「終了」の合図を出すのです。潮時ということです。
また若い犬たちは盛んに「格闘の練習」をやります。
遊びとして運動として、そしてお互いの力の確認として格闘するのです。
しかし興奮性の犬や闘志の強い犬は要注意です。
尾を高く上げ、頭を高くかかげ、耳を強く前に立たせ、
唇が強く締まり、目付きが本気の色に変わってきたら厳重に注意です。
そこで一度彼らの気分を転換させるべきです。
ボルテージが上がり切る前に、空気を変えるのです。
※あるいは、そこで「終了」とする場合もあります。
遊びの範囲であっても、
骨格・骨量の違う犬たちが激しいバトルゲームを繰り広げる時には、
思わぬケガが発生する可能性があるので要注意です。
軽い骨格の犬は、
「スピードに溢れた重い骨格の犬」からの衝撃で、
ダメージを受けることがあるので、骨折も起こり得るので、
頃合いを見計らって「動きのテンポ」を落とさせることも必要です。
※ほんの些細な何かが引き金となって、
本気の闘争に発展することがあります。
しかし多くの場合は「予兆」がありますので、
飼主はそれを感知した瞬間に、
その場の「流れ」を変えなければなりません。
背中の毛の立ち具合や尾の様子、
目付き、耳の様子、唇の様子、首と頭の姿勢などを常に観察し、
どんな瞬間でも即座に対応できるように心を準備しておくべきです。
対処の時、もし片方の犬を「抱きかかえる」場合には要注意です。
抱えるならば犬の尻部にしっかりと手を回し、
後ろ足も包み込むようにして、なおかつお腹を隠すようにして、
要するに犬の下半身全体を守るようにしながら、
相手の犬に対して「半身の姿勢」をとりながら、
相手の犬を視界に入れながら距離を開けていく訳ですが、
いつでも身体を捻って相手の犬を捌けるように心構えしながら移動します。
何故なら相手の犬に悪気が無くとも、
「抱えられた犬」は、
犬たちにとっての「興味をそそられる対象」になりがちなので、
相手の犬は立ち上がって抱えられた犬の様子を確認したがったり、
「ちょっかい」を出したがったりする場合もあるのですが、
両者のこの不自然な位置関係と姿勢により、
例えば相手が軽く噛んだつもりであっても、
意外なケガを招く危険性があるからです。
※抱える犬が多少大きくとも、
やり方次第でその犬を抱いてカバーすることは可能です。
飼主は身体に「軸心」を通した意識を持ち、
中心に力を寄せ、抱えながらも脇を絞るような感じで、
「身体全体の全身力」で犬の体重を受け止めるのです。
・・これらのごとくに観察は重要なのですが、
かといって飼主は「神経質な気配」を表現してはなりません。
その空気は伝播し、必ず犬たちにも伝わり、
その場に必要以上の緊張を生んでしまうからです。
飼主はあくまでも悠然とおおらかに、
そして例え動揺の中にあっても沈着の気配を保つことが肝心なのです。
飼主はいつでも反応の準備をしておきながら、
沈着泰然を心がけることが肝心なのです。
※また犬に限らず動物たちは「不調和な挙動や気配」に対して敏感です。
それに対して本能的な違和感を覚え、
不安な気持ちになったり警戒心を起こしたりします。動物達は敏感です。
※なお、その場に人の統率者が居るのと居ないのとでは、
状況は全く変わります。全く変わるということを、肝に銘じるべきです。
<< 付記:犬社会仁義 >>
無闇に「社会化」という言葉を使う人が多いが、
犬社会には犬社会の事情があり隠された仁義がある。
それを分かった上で「社会化」と言うならいいのだが、
ただ「人間の見地での社会化」を言うなら犬は迷惑だ。
多くの人の言う社会化は、あくまで人間の見地なのだ。
犬社会には犬社会の事情があり隠された仁義がある。
それを分かった上で「社会化」と言うならいいのだが、
ただ「人間の見地での社会化」を言うなら犬は迷惑だ。
多くの人の言う社会化は、あくまで人間の見地なのだ。
たとえば「暗黙の間合い:距離感」というものもある。
その間合いによって余計な争いを避ける場合も多いのだ。
・・間合いによって「礼儀」を表現したり。
あるいは闘いの意志の無いことを表明したり。
犬達は本能深くの間合い感覚で調和を努力するのである。
そういう場合は犬を見れば分かる。様子と気配で分かる。
だが多くの飼主は、犬達の微妙な事情が分からないのだ。
だからアクシデントが起こる。可哀想なのは犬達である。
本来ならば争いを避けられるはずなのに人間が鈍感すぎる。
犬達にしてみれば「なぜ人間は分からないの??」なのだ。
なぜ人人は犬達の事情や立場や仁義を全く無視できるのか。
なぜ闇雲に「みんな遊んで!仲良く遊んで!」を求めるのか。
あるいは、群れの「ボス」を懸けた、本能深くの闘いもある。
それは「良い悪い」の是非の領域ではなく、野性本能の掟だ。
そういうことも知っておくべきだ。そういう犬達もいるのだ。
その間合いによって余計な争いを避ける場合も多いのだ。
・・間合いによって「礼儀」を表現したり。
あるいは闘いの意志の無いことを表明したり。
犬達は本能深くの間合い感覚で調和を努力するのである。
そういう場合は犬を見れば分かる。様子と気配で分かる。
だが多くの飼主は、犬達の微妙な事情が分からないのだ。
だからアクシデントが起こる。可哀想なのは犬達である。
本来ならば争いを避けられるはずなのに人間が鈍感すぎる。
犬達にしてみれば「なぜ人間は分からないの??」なのだ。
なぜ人人は犬達の事情や立場や仁義を全く無視できるのか。
なぜ闇雲に「みんな遊んで!仲良く遊んで!」を求めるのか。
あるいは、群れの「ボス」を懸けた、本能深くの闘いもある。
それは「良い悪い」の是非の領域ではなく、野性本能の掟だ。
そういうことも知っておくべきだ。そういう犬達もいるのだ。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:10:31 ≫