<< 文化?? >>
 
イメージ 1
 
文化と習俗を混同する人が多いようだ。
文化という言葉を盾にする人が多いようだ。
文化という字義を考えれば、
軽軽しく文化などと謳えないはずなのだが。

たとえば犬達が、どれほど深い感受性の持主かは、
愛犬家の皆様なら、深く実感しているはずである。
不安を。恐怖を。痛みを。苦しみを。絶望を。。。
そういったものを犬達が人間同様に感じることを、
愛犬家の皆様なら、深く実感しているはずである。
その感受性の塊りの犬達が、
恐怖と絶望と激痛激苦の果てに「肉」にされる。
これはたんに「殺す殺さない」の問題ではない。
これはたんに「食う食わない」の問題ではない。
「食う食わない」の議論に明け暮れる間にも、
恐怖と絶望と激痛激苦の果てに「肉」にされていく。

もしそれを文化と謳うならば、
そこに恐怖と激痛激苦が存在することは大矛盾だ。
かりにも文化と謳うならば最大の配慮が求められる。
はたしてそういう配慮は、あるのだろうか??
もしもそういう配慮が無ければ、大嘘つきである。
文化という言葉を振りかざす卑劣な大嘘つきである。
人間は気軽に「命に感謝!!」などと口にするが、
もしほんとうに「命に感謝!!」ならば、
命に対する最大限の配慮があって然るべきである。
ところが世界的に、配慮の努力は極めて稀である。
ようするに人間は、
感謝!とか文化!という言葉を盾にする大嘘つきだ。
もちろんこれは「犬肉食」のことにとどまらない。
ほかの動物の場合でも、全く同様に言えることだ。
「それは文化だ!!」と同調する人間が多ければ、
世界の動物達の残酷悲劇は減ってはいかないだろう。
今はまだ文化の一言で済ませる人間の方が大勢だろう。
人間達に「それは文化じゃない!!」と感じて欲しい。

これはシンプルなことなのだ。
我が身に置き換えれば、すぐに分かることなのだ。
たとえば自分が殺されることが決定されたとして。
たとえば自分が食われることが決定されたとして。
だとしたら自分ならば、どのように殺されたいか??
自分ならば、いったいどのように食われたいのか??
それを考えてみれば、ありありと分かることなのだ。
それすら想像できないとしたら、感受性欠落である。

自分は非肉食者だが、
この記事は「食う食わない」以前の話である。
それ以前の「せめてもの」次元の話ということだ。
もし食うならば、せめてもの「配慮心」を哀願する。
それが食われる動物達の、悲痛極まる心の叫びである。
写真は2014年5月31日。狼の山の深秘光。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:06:30 ≫