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「2013年1月5日:雪の森の命」に加筆。
 
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「2014年5月29日:夜の山の祈り:香光と小さな深秘光たち」
 
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今日も真暗な未明時刻から森を歩いた。
夜明け前の気温は氷点下19度だった。
雪の森の命たちのことを想いながら歩く。
すべてが凍りつくようなこの森で、
命たちは人知れず全霊で生きている。
いったい、どうやって生きているのか。
いったい、どうやって食べているのか。
雪に覆われたこの森の、
いったいどこに食べ物があるというのか。
いったいどうやって寒さに耐えているのか。
たったひとりの動物も多いのだ。
たったひとりで飢えに耐え、
たったひとりで寒さに耐え、
たったひとりで死を迎える。
飢えの中で、衰弱の中で、
たったひとりで死を迎えるということ。
それがどれほど凄いことか実感する。
あるいは「母」も孤独である。
たとえば猪の母。たとえば熊の母。
母はたったひとりで子供たちを護る。
世界中に誰ひとりとして援護者はいない。
すべての重圧を、ひとりで一身に背負っている。
どれほど孤独か。どれほど不安か。
その孤独と不安を子供たちには微塵も見せず、
世界中に誰ひとりとして援護者のいない中で、
ただひとりで母は耐え、立ち向かうのである。
どれほどの愛の深さか。どれほどの大きな勇気か。
雪の森を歩いていると、
そういう情景が次次と浮かんでくるのである。
あまりの切なさで胸が苦しくなる。
彼らの凄さに涙があふれてくる。
なんで彼らはこんなにも全身全霊なのか。
彼らを支えるものは、いったいなんなのか。
雪の森を歩いていると、それが見えてくる。
彼らは本能の奥の奥で何かを知っているのだ。
「SOMETHING GREAT」を知っているのだ。
そうでなければ、ああいう生き方などできない。
ただ生存本能だけで、あんな生き方はできない。
極寒の森で彼らを感じていると、それが分かる。
ただ一心に、彼らのことを祈る。
山の命達のことを。動物達のことを。
そして飼われる動物達のことを。
そして家畜動物達のことを。
全世界の動物達のことを。
 
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人間社会には「害獣」という言葉がある。
「害獣」という呼称に人人は何の疑問も抱かない。
子供たちも当然の如くに「害獣!」の認識となる。
そして子供たちはその認識で大人になっていく。
人間社会のどこに「学び」の姿勢はあるのか?
動物たちの全身全霊の生涯。
動物たちの愛と勇気と偉大な使命感。
そういう尊いものを、人間は何ひとつ学ぼうとしない。
学ぶものなど何ひとつ無いと最初から決めつけている。
そして子供たちも、そうやって大人になっていく。
ただ「生態系」を勉強するだけでは、
自然界のことは何も分からずに終わる。
深奥の核心など永遠に知らずに終わる。
ただ自然学の生態系を勉強するだけでは、
ほんの表層の現象を知るだけで終わる。
今はまだ人間社会は、そういう状態である。
 
愛玩動物も家畜動物も野生動物も、根本は同じだ。
その純情もナイーブな感受性も、全く同じである。
そして彼らへの愛は、同じ根本から湧き出るものだ。
それが同じ根本から湧き出るものだということを、
それを実感できない人が未だに多いようである。
世間の意識がそういうレベルならば、
人間世界は真の共生から懸け離れたままで終るだろう。
もし共生を目指すのならば、共生心こそが最も重大だ。
世間の共生心こそが、根本の鍵となるのだ
そしてその共生心の第一歩として、
愛玩動物の心情を知ること、家畜動物の心情を知ること、
そして野生動物の境遇と心情を知ることが求められる。
そういうことが、真の共生への第一歩となるのだ。
利益の為なら、欲求の為なら、娯楽の為なら、
人間側の際限の無い満足追求の為ならば、
手段を選ばずに残酷無情に動物達を追い詰める。
それがこれまでの人間世界の実態であり、
それは人人から肯定されてきたのである。
人人が肯定すれば、その残酷状況は続く。
そこには共生心のカケラも無い。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:06:04 ≫