<<非情思想>>
 
世界には動物に「心」を認めない人が大勢いる。
「科学的に証明できなければ、動物の心の存在など信じない」
というような信じ難い思考回路の人も大勢いる。
「科学的に証明できなければ・・・」と言うが、
科学とは、そもそもなんなのか?
証明とは、そもそもなんなのか?
人人は「科学!」「証明!」と叫ぶが、
所詮は思考領域の範囲内でしか認めようとしない。
人人は思考を超えた領域を固定観念で疑い否定する。
「動物に心など、あるはずが無い」と否定する。
「動物に理性など、あるはずが無い」と否定する。
 
そもそも科学とは、ごくごく一領域に過ぎないのだ。
この世の真実の、ごくごく一面に過ぎないのだ。
ごく一領域に過ぎないのに、ごく一面に過ぎないのに、
「科学こそが万能であり、科学こそが真実である」
などと頑なに思い込んでいる科学妄信者が大勢いる。
それはもはや科学教であり妄信狂信レベルである。
そして「動物に心など認めない」などど考えるのだろう。
あの「デカルト」は、動物機械論を唱えた。
350年くらい昔の思想家のデカルトである。
自分の飼犬を「麻酔なし」で解剖したデカルトである。
解剖台に縛り付け、意識ある犬を麻酔なしで解剖したのだ。
その犬は、死にゆく最期に、デカルトの手を舐めたという。
デカルトは、それでもなお、動物に感情を認めなかった。
デカルトは本気で動物機械論を唱えた。
「人間は動物を、どのように利用してもいい!」
「なぜなら動物は無感情の機械だからである!」
「そして人間は自然界を支配すべきである!」
このような信じ難い思想を世界に流布したのだ。
そしてその思想は未だに世界に影響を与えているのだ。
未だにその思想に洗脳された信者が大勢いるのである。
あろうことか動物学の世界にも、そういう信者は大勢いるのだ。
人間の「優越意識」というものは怖ろしい。
人間の「特権意識」というものは怖ろしい。
未だに世界は人間至上主義が圧倒的大勢力である。
 
科学的に証明できなければ動物の心など認めないと言うが、
それならば自分の心はどうなのか?
自分の心は、科学的に証明されているのか?
それとも、自分の心も信じていないのだろうか?
実は自分の心さえ信じていないのかも知れない。
「感じる!」ことを疑い続ければ、
際限なく思考だけに囚われてしまえば、
自分で自分の心を封じ込めてしまうことになる。
心を封じ込めて頭の思考だけで生きようとすると、
この世の最も重大な真実を知ることなく終わるだろう。
 
動物には厳然と心がある。
人間と全く同様に心がある。
それは理屈で考える領域ではない。
それは「感じる!」領域なのである。
動物の心を信じられない人は、
動物の心を感じられない人なのだろう。
感じることができないから、
信じることができないのだろう。
しかし信じることができないからと言って、
動物の尊厳を蹂躙することは赦されない。
動物の尊厳を平気で蹂躙する世の中は、
必ず殺伐となり、必ず荒廃していく。
どんなに科学?を追及しても、
必ず殺伐となり、必ず荒廃していく。
 
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人人は科学と敬虔世界を真反対だと思い込んでいる。
人人は科学と敬虔世界は相容れないものだと誤解している。
どうして人人はそれを勘違いするようになったのだろうか。
非情思想から生まれる科学は科学ではない。
深愛の敬虔心から生まれる科学こそ科学だと思う。
深愛の敬虔心から生まれた科学だったら、
こんなに地球を壊すことは無かっただろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:04:04 ≫