<<非情の罠>>
「狩るガール」というのが巷で話題になっている。
動物を「狩る」ことが大好きな女子のことだそうだ。
狩ることが大好きな女子が増えつつあるとのこと。
彼女達は獲物の命に「感謝」していると言う。
その尊い命に感謝して食べるのだと言う。
人人に命の尊さを知ってもらいたいと言う。
そういう哲学で狩るのだと言う。
彼女達に共感する人が多いようである。
彼女達を応援する人が多いようである。
どうやって狩るのか?
はたして動物を一発で仕留めることはできるのか?
苦しませずに瞬間に絶命させることはできるのか?
その動物が恐怖と激痛に苦しむことは無いのか?
その動物は、どういうふうに死んでいくのか?
「感謝!」と口にする以上、そこが問題だろう。
「命の尊さ!」と口にする以上、そこが問題だろう。
そこが最も重大な問題なのに、人人は無関心である。
無関心ということは、感謝などしていないということだ。
実は本心では、人人は感謝などしていないのだ。
彼女達に、己を懸けた修練と精進はあるのか?
己を懸けた長年の修練と精進が無ければ、
野生動物をそう簡単に仕留められる訳がない。
一発で瞬間に絶命させることなど不可能な話だ。
そんなことは、最初から想像できることである。
想像できることなのに、人人は想像もしない。
ある女子は、「罠:ワイヤートラップ」を使うと言う。
ワイヤートラップが、どれほど残酷な罠か?
逃れようとすれば、ワイヤーが肉を裂いていく。
その罠に掛かれば、足は無惨に破壊されていく。
それでも動物は、必死に逃れようとする。
地獄の激痛と恐怖を渾身の気力で耐え続ける。
その動物の胸中を人人は想像できるはずである。
想像できないとしたら、その人の感性は死んでいる。
その女子は、罠の獲物を凶器で叩いて気絶させると言う。
ただの一撃で、気絶させることはできるのか?
剣道の達人ならいざ知らず、普通の女子の一撃で、
野生動物を瞬間に気絶させることなど無理だろう。
おそらく何回も叩き続けることになるだろう。
そして気絶させて血を抜きながら皮を剥ぐようである。
おそらくまだ息のあるうちに皮を剥ぐということか。
罠の獲物は、おもに子供の猪だと言う。
人間で言えば小学校の高学年くらいの猪のようだ。
あどけない子猪が、そのような方法で殺されるのだ。
足を破壊され、何度も何度も叩かれ、皮を剥される。
野生動物は子供でも非常に忍耐強いが、
しかし最期の頃には、悲鳴を上げるだろう。
耐えることの不可能な激痛に悲鳴を上げるだろう。
その女子は、その場面で、なにを感じているのか?
命の尊さ?? 命への感謝??
私は山に棲んでいる。
野生動物とともに棲んでいる。
野生の熊や猪とも遭遇する。
至近距離で遭遇することもある。
彼らのことは、だいたい分かる。
彼らの心境は、だいたい分かる。
彼らがどれほど真面目に生きているか。
彼らがどれほど精一杯に生きているか。
そういうことが痛切に伝わってくる。
子猪達も懸命に頑張って生きている。
どれほど懸命かが痛切に伝わってくる。
ほんとうに健気だ。切なくなるほど健気だ。
そういう命が地獄の苦しみを味わいながら死ぬ。
地獄の苦しみを味あわせる人間は、
自分はその苦しみに耐えることはできるのか?
とうてい耐えられないだろう。
自分が耐えられないことを他者に味合わせることが、
それがどれほど罪深いことか思い知るべきである。
我が身に置き換えてみれば全ては明らかになる。
それがどれほど無慈悲な非道か分かるはずだ。
しかし多くの人人は狩るガールに共感している。
人間社会が動物に対してそういう感性ならば、
動物の悲劇は決して防ぐことはできない。
動物に対する感性というものは、
たとえ動物の種類が異なれど、根本で一緒である。
犬に対する感性も猪に対する感性も根本で一緒である。
たとえば野生の猪に対して冷酷な社会は、
犬に対しても実は冷酷なのである。
根本で一緒だということを実感できない人は、
まだ深い領域に足を踏み入れていないのだろう。
なおこの記事は「殺す殺さない」以前の話である。
あるいは「食べる食べない」以前の話である。
あるいは「害獣うんぬん」以前の話である。
この記事は、それ以前の話である。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:04:04 ≫