<<心身発育>>
 
子犬は発育することが仕事だ。
困難を乗り越えていくための身体になるために、
そのために充分に発育しなければならない。
充分に発育するためには不可欠の条件がある。
充分な食事と。充分な水と。充分な睡眠と。
そして充分な遊びと。そして充分な排泄と。
食べて飲んで眠って遊んで出して。
出して遊んで飲んで食べて眠って。
それが子犬の重大な仕事である。
そうやって子犬は強く大きくなっていく。
なお「食べる」と「排泄」は、不可分にワンセットだ。
だから「食べる」と「排泄」は同等に重大なのである。
だから子犬が気兼ねなく存分に排泄できる環境が大事だ。
「躾」と称して排泄を我慢させることばかり重視する人も多いが、
過度の排泄我慢は、心身の両方にダメージを与える。
常に我慢を強要する人は、試しに自分も我慢してみればいい。
それを我慢できるかどうか、身をもって思い知るべきである。
時期が来れば、自然に排泄回数は減っていくのだから、
それまでは「急激な発育に於ける頻繁な排泄」なのだから、
そして子犬なりに、できる限りは我慢しているのだから、
そこら辺の事情を、飼主は肝に銘じておくべきである。
子犬自身も本当は自分の巣や寝床を汚したくは無いのだ。
あるいは「水」は、想像以上に不可欠な要素である。
水もまた発育の材料なのだ。食事と同等に材料なのだ。
そして水は身体内部で実に様様な調整作業を行なう。
身体内部を洗浄する。修復する。潤滑させる。回復させる。
だから水には想像以上に様様な役割があるのだ。
そして子犬にとっては、なおさらに水は重大なのだから、
子犬の水容器は常に満たされていることが鉄則だ。
あるいは「睡眠」もまた、子犬の発育に不可欠の条件だ。
子犬は「睡眠中に発育している」ということを知って欲しい。
だから眠くなったらいつでも寝れるような環境にして欲しい。
子犬を玩具のように弄んで寝させない家庭もあるようだが、
それは「発育するな!」と強制しているようなものである。
あるいは「遊び」には、いろんな意義が秘められている。
運動の意義もある。精神成長の意義もある。
子犬は心と身体の両方を存分に躍動させ、
そしていろんな大事なことを学んでいく。
約束を学んでいく。交感を学んでいく。協調を学んでいく。
なお遊びの場は「滑らない」ということが非常に重大だ。
足元が滑れば身体全体を使って存分に遊ぶことができない。
滑りながらでは身体各部に本来とは違う不自然な負担が掛かる。
そしていつも滑りながらでは本来の筋肉強化は成されずに終わる。
だから飼主は工夫して「滑らない場所」を設けてあげるべきである。
そして欲を言えば、足場が安全で立体的な遊び場も欲しいところだ。
平地だけでは、どうしても本気の全身運動まで至らないからだが、
これは住環境の問題となるので、あくまで理想の話である。
ところで遊び場には、もちろん大事な物は置かないことが鉄則だ。
人間にとっての大事な物を置けば、そこで不必要な叱責が起こる。
不必要な叱責は無意味であり、それは教導とは懸け離れているのだ。
あるいは「安息できる聖域」のことも重大条件だ。
子犬を「常に人間側に付き合わせる」ことには要注意だ。
「その子犬が真に安息できる聖域」というものが必要なのだ。
そしてまた子犬には、リスペクトできる「ボス」が必要だ。
心からリスペクトできるボスがいれば子犬は安心して落着く。
そして飼主が尊敬に値する親でありボスでありリーダーならば、
その子犬の教育は、すでに成されたも同然となる。
子犬は真のボスの声に耳を傾け、そして心から敬慕するのだ。
いかに子犬からリスペクトされるかが、最も重大な鍵なのである。
そして精神環境というものは、子犬の身体にダイレクトに影響する。
子犬の発育とは、肉体環境だけで成されるものではない。
両環境の様様な要素が絡み合い、それで初めて発育できる。
そのどれが欠けても、本来の充分な発育はできないのだ。
「どれが大事?」ではなく、「どれも大事!」なのだ。
食事内容や予防診療だけに神経を費やす人は多いが、
それだけでは充分な発育はできない。
それだけでは潜在力を開花させることはできない。
全ての様様な要素が深く相関して発育していくのである。
なお、生まれながらに強健な子というのは、
もの凄く元気満満な場合も多い。
そういう場合は、それを大らかな大度量で見てあげる。
子犬時代から、いちいち些細なことで目くじらを立てれば、
その子の心身は萎縮し、強健な素質も失われていくだろう。
そして常に「できる限り叱らずに済む状況」を設定していく。
本来なら叱らずに済むというのに、
わざわざ叱る状況に設定してしまっている飼主が多い。
共に暮らしていく中では、叱り諭す場面も起こり得るが、
時には大喝する場面も起こり得るのだが、
しかし無意味な叱りは、ただただ理不尽そのものなのだ。
ある時期を過ぎれば、子犬の理解力は一段と増していく。
その頃からだんだんに、その理解力に応じて教導していく。
理解力に応じた教導でなければ、なんの意味も無い。
意味が無いどころか、子犬の心を閉ざしていく。
ひとつ疑問に思うことがある。
人人は口では犬の強健を望みながら、
しかし「元気すぎる犬は嫌う」ようである。それが疑問だ。
世間では犬の虚弱体質に悩む飼主も多いようだが、
いろんなサプリや薬を探し回る飼主も多いようだが、
かといって「元気すぎる犬」だと困り果ててしまうようだ。
その元気を美点として受け入れられる余裕も無いようだ。
その気持ちも分からなくではないが、
本当は「元気を損なわずに調和する」ことこそ醍醐味なのだ。
これは躾トレイニングの領域の話ではなく、
あくまで飼主自身の精神姿勢の領域の話であり、
つまり「真にリスペクトされるボス」の領域の話である。
このことは軽視されているが、本当は最も重大な課題なのだ。
最も重大な課題なのに、あまりにも軽視されてきたのである。
なおここで言う元気とは、落着きの無いことではない。
元気一杯というのは精気に満ちた状態のことを言う。
人人は、結局なにを求めているのか?
もしほんとうに心から犬の健康を望むのなら、
健康の母体である「元気!」のことも理解すべきである。
それを充分に理解した上での「教導」なのである。
犬は「理解してくれた上での教導」を見抜くのである。
それが「理解してくれた上での教導」ならば、
時には厳しかったとしても、犬達は心で納得するのだ。
時には烈しく大喝したとしても、
その瞬間は犬達は恐縮至極になろうとも、
しかしその後に彼らは、決して萎縮したりはしない。
それはその人の「本心」を知っているからである。
人人は気軽に「躾!社会化!」と口にするが、
しかし根本を理解していない人の躾トレイニングは、
その犬の貴重な潜在力を奪っていくだろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:03:26 ≫