<<犬達は感極まる>>
犬達は感極まる。
とてつもなく嬉しいとき。
とてつもなく幸せを感じたとき。
その気持ちは身体の表面にまで現れる。
その気持ちは身体の動作にまで現れる。
その時その時で、いろいろな動作がある。
たとえば、「くしゃみ」をする。
たとえば、両前足で顔を拭くような動作。
たとえば、頬を交互に地面に擦り付けて、
寝転がり背中を揺するように地面に擦り付ける。
たとえば、もの凄い勢いで周囲を踊るように疾走する。
ほんとうに、まさしく踊りながら疾走するのである。
さらに色色あるのだが、言葉で表現することは難しい。
言葉では表現できないような微妙な動作も多いのだ。
どうにもならないほど嬉しい気持ち!
どうしていいのか分からないほど嬉しい気持ち!
そのとてつもない気持ちが、身体の表面にまで溢れ出る!
※上記の動作は、別の理由の場合の時もある。
別の理由の場合の時でもそれは、
「どうにもならないほど!」という大きな情動の現れだ。
あるいは、「声にならない声」というものがある。
犬達は本当に感極まると、声にならない声を上げる。
「むせび泣く」というものに近いかも知れない。
むせび泣くほどに嬉しいということ。
それほどまでに嬉しいということ。
我家の犬達は、私が抱っこして語りかけると、
声にならない声を上げて、むせび泣く。
私も感極まり、目頭が熱くなる。
狼の太郎も、声にならない声を上げた。
私は太郎の狼舎で寝る日が多かったが、
太郎はその大きな顔を私の胸元に乗せる。
なにしろ大きな顔だったから非常に重かったが。
そうすると太郎は、声にならない声を上げた。
むせび泣くように、声にならない声を上げた。
深い深い狼の純情に、私もまた感極まる。
あるいは太郎は心の琴線に触れる音楽を聴くと、
だんだんたまらなくなってきて、
四本の足を交互に上げながら身体を揺さぶり、
そして哀切の遠吠えホウルを歌い始めるのだった。
あるいは私が狼舎で寝れない夜には、
太郎は無言で私の部屋を見つめ続ける。
寝小屋から出て、暗闇の中で無言で立ち続ける。
「太郎・・今日はお父さんは行けないんだよ・・」
「だから今日は我慢するんだよ・・」と呼びかけると、
太郎は遠慮して小さな小さな遠吠えで答えるのだった。
あの抑えに抑えた小さな小さな遠吠えが忘れられない。
その遠吠えを終わると、太郎は静かに寝小屋に戻る。
事情を察して静かに戻る暗闇の太郎の後姿に涙した。
立てば190cmを超えるような大狼の、
海より深い純情は、今もこの胸に刻まれている。
動物の行動を動作を、分析して考えようとする人が多い。
時には分析して考えることも必要だろうが、
それに囚われていたら、動物の心を知ることはできない。
分析の前に「自分の心で感じる!」ことこそ最も重大だ。
自分の心の直感なのだ!自分の心の直観なのだ!
それこそが最も重大な鍵であることを知って欲しい。
どれほど本で分析を勉強しようが、
最も肝心の直感力と直観力が錆びついていれば、
その行動と動作の「奥の奥」を知ることはできないのだ。
動物たちの純情。感極まる純粋無垢の純情。
それを知れば、動物たちを裏切れない。
それほどまでの純情を、なんで裏切ることなどできようか。
本当に動物たちの純情を知る人を、動物たちは察知する。
動物たちは、その人の気持ちに「応えようと」する。
彼らの「応えようとする」気持ちを、その人は察知する。
両者が互いに、精一杯に「応えようと」していく。
それが「絆の道」というものだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:03:04 ≫