<<動物対話//対話と心気>>
AnimalCommunication
 
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「登坂の深雪を飛ぶ響華!心身一体表現!」
 
たとえば犬と暮らすとき、対話は不可欠だ。
対話無しに、犬と暮らすことはできない。
もし対話が無ければ、それは「飼う」に過ぎない。
ともに暮らすことと「飼う」ことは、別世界である。
しかし「対話」というのは、もの凄く奥が深い。
そこには目に見えない段階というものがある。
 
対話の最初は、その犬の心境に「入る」こと。
その犬の心境に入って、その犬の心模様を見る。
さらに深く入って、その犬の真情を見る。
だがそれだけでは、犬と暮らすことはできない。
それだけでも相当に難しいことだが、
それだけでは真に一緒に暮らすことはできない。
巷で解釈される「AnimalCommunication」というのは、
「動物の心境を読む」という段階に留まるようだが、
その段階で終わると、犬を導くまでには至らない。
犬を導くということは、「犬を無事に導く」ということだ。
それは「無事に導くための導き」だから、
どんな飼主でも、それを心得なければならない。
「そういうのは苦手だから・・」とか、
「そういうのは嫌いだから・・」とか、
そういうことを言ってる場合ではない。
愛する愛犬を「無事に導く」ためには、
そういうことを言ってる場合ではない。
ほんとうに切迫した危険事態の時には、
「導く力」というものが絶対に不可欠なのだ。
それが無ければ結局は愛犬を護れないのだ。
 
暮らすということは、互いに「協調する」ということだ。
これは「なんでもかんでも!」という意味では無い。
「根幹の重大部分で協調する」という意味である。
協調するためには、協調心が起きなければならない。
協調心が起きるには、相手への「リスペクト」である。
「リスペクト」があるからこそ、協調心が起こるのだ。
犬から真にリスペクトされるのは難しいことだ。
リスペクトされるためには、己の心気を磨くしかない。
心気を磨き、そして心気力を鍛錬していく。
 
この「心気パワー!」というものは重大だ。
心気力が弱いと、犬を導くことはできない。
犬は本能深くで、心気力を見ているのだ。
意識せずに無意識に、本能深くで見ているのだ。
犬は相手の心気力に敬服する。
それは、どんな犬でもそうである。
犬は心気力というものの意味を知っている。
本能深くで、心気力をリスペクトするのである。
それでは「心気力」とは、どういうものなのか?
簡単に説明することは難しいが、
あるいは「純粋境地の胆力」と言えるだろう。
自然体で極集中された胆力と言えるだろう。
イメージするのが難しいかも知れないが、
全身全霊で愛犬を導くことを目指し続ければ、
だんだんイメージできるようになるはずである。
犬への愛というものは、
ただ人間視座で愛情を注ぐことだけではない。
それは犬への愛の、ほんの入口段階である。
犬への愛を成すために己の心気力を高めていく。
 
多くの犬達は、本来の「表現」を抑えて抑えて生きている。
命としての表現を抑えて生きるということは辛いことである。
見た目は豊かな生活の中にいる犬達の多くも、
心の内側では抑えに抑えて人間に合わせている。
人間にも事情はあるから、ある程度は仕方ないことだが、
人間は犬の真情に気づかずに、あるいは無関心に過ぎる。
だから世の犬達に「表現」させてあげたいと思うのだが、
ただし飼主に心気力が不足していると、収拾がつかなくなる。
収拾がつかなくなれば、その犬の運命は危うくなるだろう。
だが飼主の心気力が大きければ、事態に節度が生まれる。
つまり表現と抑制のバランスが可能になるのである。
あるいは「多頭飼い」の場合に於いては、
さらに顕著に飼主の心気力は問われることになる。
犬の集団を、表現させながら無事に導いていくのは、
それは難しいことだから、心気力が大きく問われるのだ。
 
もし質問があれば、いつでも一報ください。
知る限りに全霊で答えます。
ここは狼寺です。営利商売ではありません。
飼主の真摯な悩みに答えることは、
その犬の幸せに直結することだから、
だから狼寺は全霊で答えます。それだけです。
これまでこのブログで書いてきたことは、
すべて己の実体験を元にしています。
どこかの話を流用する真似などしません。
すべては野性対話道で実体験したものです。
狼寺の願いは犬達の真情が理解されることです。
そして犬達を無事に導いてもらいたいことです。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:02:26 ≫