<< 感 受 性 >>
 
日本は自然環境についての教育に於いて、
子供達に強引に数字的生態系論を教え込むようだ。
数字的バランスで自然界は成り立っていると教え込む。
数字の帳尻が合えば自然界は成り立つのだと教え込む。
自然界は数字で成立しているわけでは無いというのに!
自然界の奥の奥は、「心の世界」だというのに!
そして人間は世界の頂点であり、
人間は人間の都合で行動すれば良いのだ!と教え込む。
人間にとって迷惑に感じる生き物は排除すべきだ!と教え込む。
快適生活の邪魔になる動物は「害獣!悪者!」なんだと教え込む。
「害獣だから手段を選ばず捕えて殺して食うのだ!」と教え込む。
「動物が苦しもうが泣こうが、そんなこと気にするな!」と教え込む。
あるいは「利用できる動物は手段を選ばず利用しろ!」と教え込む。
「人間の贅沢のためには手段を選ぶな!気にするな!」と教え込む。
そういう教育が、大手を振って、まかり通っている。
そういう教育を受けて育つ子供は、どういう思想になるか?
そんなことは、火を見るよりも明らかである。
そういう教育を受ければ、「人間至上主義思想」になるだろう。
どんどん「人間優越意識・人間特権意識」に染まっていくだろう。
それでは昔の西洋諸国と変わらないではないか。
そういう歴史が地球環境をズタズタにしてきたというのに。
そういう歴史を、わざわざ現代日本は再現しようというのか。
実際にそういう教育を受けて育った子供達が大人になっている。
今の日本の大人達の多くは、そういう教育に染まっているだろう。
だから「異種の命への想い」というのは極めて稀薄だろう。
これは野生動物に関してだけではない。
「ペット動物」に於いても、「産業動物」に於いても、
愛情稀薄の傾向は同様だと感じる。
すべては根本で直結しているのである。
 
もし繊細な感受性の子供がいたとしても、
その尊い繊細な感受性は、
大人から学校から世間から社会から、
容赦なく踏み躙られることになるだろう。
「生きるためには感受性など邪魔なのだ!」と怒られる。
たとえ異種の命への感受性に満ちた子供がいたとしても、
そのことを誉める大人は、あまりにも少ないと感じる。
多くの大人は、そういう感受性を蔑んでいるからだ。
それがどれほど大切なものかを知らないからである。
それこそが真の共生を実現させる最も重大な鍵なのに、
大人達は一向にそのことに気づかないのである。
感受性で社会は変わる。感受性で世界は変わる。
どれほど理論理屈を捏ね繰り回そうと、
その人の思考の方向を決めるのは感受性なのだ。
その人の感受性こそ、その人の思想を生んでいくのだ。
 
異種の命への感受性に満ちた子供が、
肩身の狭い思いで生きるような社会とは、
どれほど外側が豊かに見えても、
その内側は暗黒荒涼殺伐世界である。
狭量な人間主義というのは、
民族主義に繋がり身内主義に繋がるだろう。
そして自分主義へとエスカレートしていくだろう。
異種の命への感受性というのは、
実は壮大世界への「鍵」なのだ。
 
もし異種の命達の全身全霊を教えてあげれば。
もし命達一頭一頭の渾身の生涯を教えてあげれば。
もし命達の深く繊細な感情を教えてあげれば。
子供達の感受性は、どんどん磨かれていくだろう。
そして世の中は、必ず変わっていくだろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:01:28 ≫