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人人は「自然に感謝!」と言う。
人人は「命に感謝!」と言う。
その「感謝!」とは、どういう感謝なのだろう?
もし「感謝!」と言うからには、
「命に対する想い」というものがあるはずだ。
厳しい野生界を全身全霊で生きる命に対して、
はたして「どういう想い」があるのだろう?
そこに渾身の祈りは、あるのだろうか?
 
野生界に「食う:食われる」は存在する。
だが野生界の命達は誰もが、
「自分もまた食われる立場」という覚悟で生きている。
だが人間達は、どうだろうか?
「自分だけは食われない立場」と思うのか?
自分だけは「特別な立場の命」だと思うのか?
そういう傲慢な支配者意識の人間達に、
はたして本物の覚悟はあるのだろうか?
狩猟家達は「生きるため」と言うが、
「どのように生きるため」なのだろうか?
たとえば狩猟家達は、
野生動物のように渾身の生活で生きているのか?
厳しい飢えと寒気に耐えながら生きているのか?
極限の渾身の果てに独りで死にゆく生涯なのか?
いったい狩猟家達は、どういう「生きる」なのだろう?
 
もし本心の感謝があるとするなら、
狩猟するにしても「美学」が生まれるはずだ。
それは心から湧きあがる「精一杯の配慮」だろう。
「せめて安静に死なせてあげたい・・」という配慮美学だ。
それは「急所を一撃必中」である。それが大基本だろう。
そのためには「不断の努力研鑽精進」が不可欠である。
はたして、そういう美学と配慮と努力は、あるのだろうか?
昔は「一銃一狗:一人と一犬」という美学があったようだ。
単発式の村田銃と一頭の犬を相棒に、一人で山に入る。
単発だから、急所を外せば、自分の身が危うくなる。
いかに勇猛な日本犬が立ち向かっても、
野生の大型獣の大力には、とうてい敵わないのだ。
だから「急所一撃」を本物の真剣さで追求する。
相手を「半矢:半殺し」にしないために究極に集中する。
「半殺し」の状態は、相手にとって最も過酷なのである。
だからこそ、一撃で安静に仕留めなければならない。
そういう美学は、今の日本にあるだろうか?
気軽に散弾銃を使う人も多いだろうが、
もし身体に無数の散弾を受けて逃げれば、
その動物の苦しみは息絶えるまで無残極まる。
そういうことは、容易に想像できるはずである。
 
残酷無情の「くくり罠」に捕われた動物の心境とは?
それは動物を愛する人ならば誰でも分かるだろう。
その動物の恐怖と激痛と必死と絶望と悲しみを、
まさに我が身の如くに感じることだろう。
わざわざ命達に極限の苦痛を与える罠猟を、
それを平気で平然とできるのなら、
「感謝!」などと口にできないはずである。
しかし口にする人が多いようである。
もし自分が「食い込むワイヤーの罠」に捕われたら、
その人は正気でいられるだろうか?いられないだろう。
必死に逃れようとすればするほど、
そのワイヤーは肉を裂き、骨に食い込んでいくのである。
くくり罠の仕掛人は、その苦痛に耐えられるだろうか?
自分の耐えられないことを、他者に行なってはいけない。
 
この狼山ブログの訪問者欄に、
狩猟家の人が来ていたので紹介させて戴く。
狩猟家の人人も、思想や感性は様様だろうが、
はたしてそこに、命へのリスペクトはあるだろうか?
はたしてそこに、渾身の祈りはあるだろうか?
「YOUTUBE」には狩猟家達の多くの捕獲映像がある。
「猪・熊・鹿」「罠・捕獲」などで検索すれば、たくさん出てくる。
どういう感覚で動物たちを見ているのかが分かるはずだ。
「殺す:食う」という話とは別の話として、
はたしてそこに命への敬意と感謝はあるのだろうか??
 
「山心」とは武装して入れば知ることはできない。
夜の深山に素手丸腰で入る姿勢でなければ、
そういう心境地でなければ、山心を知ることはできない。
鉄砲やナイフで武装した「下心満載」の心境地では、
たとえ山に入っても、何ひとつ分からずに終わるだろう。
傲慢強欲下心満載の人間には、「野性」は分からない。
「SPIRIT of the WILD」の真の意味も分からないだろう。
野性とは野蛮のことではなく「全身全霊」のことなのだ。
 
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この森には熊も猪も棲んでいる。
熊とも猪とも至近距離で逢っている。
熊とは2mで向き合った。猪には両手で触れた。
いつも素手丸腰だが、こうして無事に生きている。
山の動物たちは、私の心境地を見抜いている。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2014:01:17 ≫