<<遠吠え//魂の歌>>
 
我家では「遠吠え:ホウル」は日常だ。
この狼山家族の三十年間、
ずっと家族達の遠吠えを聴いてきた。
我家は人里離れた高山だから、
心置きなく遠吠えを歌わせてあげられるのだ。
我家の犬達は、あまり「ワンワン」とは吠えない。
その代わりに、遠吠えをよく歌うのである。
しかし人里だと近隣問題が生じるだろうから、
飼主は遠吠えなど歌わせることはできないだろう。
人里では犬達の遠吠えを聴く機会も少ないだろう。
 
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<<今の我家で一番重低音のバスを受け持つ「SIN:9歳」>>
 
遠吠えには、いろんな意味と、いろんな種類がある。
もちろん「合図」の場合もあるのだが、
遠吠えの真骨頂は「魂の歌」のときに現われる。
魂の歌は、心の一番深いところから湧きあがる。
心を振り絞るように全身全霊で歌うのだ。
心の真情を歌に託す「魂の歌」なのである。
我家は皆で遠吠えのコーラスを合唱するのだが、
だいたい「受け持ち」が決っている。
それぞれの音程で、それぞれのパートを受け持つ。
そしてそれが絶妙なハーモニーとなり、
しかもダイナミックに変調していくのである。
それぞれに他の犬の音調を聴きながら、
そして皆で即興で作曲していくのである。
そして最後には、見事にピタッと終わる。
不思議なレベルで、ピタッと止むのである。
私は彼らの遠吠えが始まると、そこで立ち止まる。
そして心を鎮めて深く静かに魂の歌に聴き入る。
我が子たちが全身全霊で歌っているのだ。
だから私は深く静かに聴き入るのだ。
そうやって三十年間、遠吠えを聴いてきた。
これまでの大勢の家族たち。
彼ら全員の遠吠えを憶えている。
今もありありと、この胸に蘇る。
 
狼の太郎の遠吠えは異次元だった。
太郎の圧倒的な重い響きの声量は、
たぶん誰も信じることができないだろう。
ただの声量とは違う。重い響きなのだ。
大型雄狼の重い響きは、大気を振動させたのだ。
地面にまで振動は伝わり、そして窓ガラスも振動した。
その重い響きは、つまり彼の底力の象徴だった。
彼に秘められた底力の象徴が、その重い響きだった。
彼はいろんな遠吠えを歌ったが、
もっともハイライトは、「力の遠吠え」である。
己に潜む「力」を、彼は歌で表現したのである。
もしそれを誰か間近で聞けば、
その人はその場を動けなくなっただろう。
それくらい圧倒的な、壮大な迫力だった。
太郎が初めて我家に来た日の深夜、まだ赤ん坊の彼は、
窓から見える月を仰いで、長い長い遠吠えを歌った。
それはとうてい、赤ちゃんの声量とは信じ難かった。
それは成犬の遠吠えよりも深く重い声量だったのだ。
その遠吠えは、最愛の母狼との別れの歌だった。
母狼との別れを覚った「覚悟の歌」だった。
自ら未練を断ち切るための覚悟の歌だった。
彼の後姿を見守る私を途轍もない衝撃が貫いた。
暫く動けなくなるほどの衝撃が貫いたのである。
太郎を生涯裏切らないことを改めて胸に誓った。
どんなことがあっても裏切らない誓いを胸に刻んだ。
 
あるいは狼のオリオンは、
その後の家族の遠吠えのリーダーだった。
彼は私が仕事に出掛ける時、
ずっとずっとずっと、私を見送ってくれた。
そして「魂の歌」を歌い始めるのだった。
毎日毎日、森から出掛ける私をじっと見送り、
そして彼の心はどうにもたまらなくなって、
全身全霊で遠吠えを歌ってくれたのである。
彼が歌い始めるのを待っていた他の皆皆も、
彼に合せて渾身の合唱を奏でてくれたのである。
私はいつも、森の小道の途中で車を止め、
姿勢を正し、目を瞑り、彼らの遠吠えを聴いた。
我が子たちが、この私を、
心の底から見送ってくれているのだ。
「お父さん!!お父さん!!」と。
その魂の歌を、軽い気持で聴くことなどできない。
だから自然と瞑目し、心の一番深くで聴いた。
毎朝毎朝聴いても、その感動は色褪せない。
魂の歌は、いつも真実だから、
それは真実の魂の歌だから、
だからいつも、悲しくなるほど、胸打たれたのだ。
森に坐れば、あの魂の歌が、今もはっきりと聴こえる。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:12:08 ≫