<<犬の気配と状況を洞察する>>
ときどき犬による咬傷事故がニュースになるが、
そういう事故に対する「解説」は、
いつもいつも決まりきった教科書解説だ。
まず第一に、あまりにも事故を「十把一絡げ」にしている。
いつもいつも「犬が人を咬んだ!」で十把一絡げにしている。
その時その場の「状況!」は、ほとんど注目されない。
その時その場の「事情!」は、ほとんど注目されない。
そんなことでは、事態を解決することなどできない。
そしてほとんどの解説者は、
「犬の躾・訓練・社会化が成されていないからだ」と言う。
だがそれだけでは咬傷事故を防ぐことはできない。
それだけでは事態を根本から解決することはできない。
その場の「状況」を分析できない飼主が多い。
その時の「犬の気配」を感知できない飼主が多い。
だから予測もできない。回避対応もできない。
素早く対応して事故を回避することができない。
これは「相手側」にも同じことが言える。
相手側もまた同様に認識不足の場合が多い。
つまり人人の多くは著しく認識不足である。
まず、自分が「犬」になってみることだ。
自分が、犬の身体になってみることだ。
自分が、犬の立場になってみることだ。
自分が、犬の心境になってみることだ。
そうすれば、その犬の事情が見えてくるはずだ。
そうすれば、状況の核心が見えてくるはずだ。
「犬の身体」になってみること。
「犬の立場」になってみること。
「犬の心境」になってみること。
これは犬と接する上で、最も重大なことなのだ。
最も重大なことなのに、人人は実践していない。
だから様様な問題が次次と起こってくるのだ。
犬は人間のように言語で表現できない。
「近づかないで!」とか「貴方は挙動不審だ!」とか言えない。
「あっちへ行って!」と相手を手で押し退けることもできない。
手で押し退けられるものなら、咬む前に犬はそうするのだ。
もちろん犬は「全身!」で心境を表現しているが、
周りの人間が鈍感だから、それを察知できないのだ。
そして犬は最終手段で表現しなくてはならなくなる。
もちろん最終手段と言っても、それには「段階」がある。
つまり「咬み方」にも、「程度!手加減!」があるのだ。
その「程度!手加減!」というものを人人は無視する。
十把一絡げに「咬んだ!」の一言で断罪する。
これでは問題の根本を解決することなどできない。
※犬達の「群れ」を本気で観ていれば分ることだが、
彼らは「咬む行為」でもコミュニケーションしている。
彼らは「様様な咬み方」で意思を伝え合っている。
彼らの「牙」は、たとえば人間の手のように、
様様なコミュニケーションに使われているのだ。
そしてまた微妙な愛情表現にも使われるのである。
その場の「状況!」を瞬時に把握する。
「場の気配!犬の気配!」を瞬時に洞察する。
そして主人は事態を予測し、自然体で回避へと行動する。
その状況から何気なく離れ、その状況と間合いを置く。
その状況と間合いを置けば、別世界になるのだ。
ほんの僅かな間合いの違いで、別世界になるのだ。
だから「間合い!」というものが、もの凄く重大なのである。
だが世間では「間合い」とか「呼吸」とかが軽視されている。
軽視されるどころか、もはや無頓着のような風潮である。
本来なら「犬達は間合いで調和を保っている!」と言えるが、
肝心の主人がそれに無関心では、どうにもならない。
僅かな間合いの違いで、犬の心境は大きく変わるのだ。
僅かな間合いの違いで、その場の展開は大きく変わるのだ。
そういうことを知らなければ、本来なら犬とは暮らせないのだ。
ちなみに「間合い」とは、大まかに言えば「距離感」だが、
単なる距離感ではなく、もっといろんな要素を含んでいる。
距離だけではなく、態勢とか目線とか方向とかも含んでいる。
この「間合い」というものは、普段から本気で意識していれば、
だんだん自分自身で「実感」できてくるはずである。
自分が犬と一体になれば、ありありと実感できるはずである。
犬と一体になれば、第三者との間合いの重大さが分るはずである。
とにかくこの「間合い!」は、アクシデントを防ぐ上で重大である。
ただし、神経質になっては絶対にダメである。
事態を怖れて「怖いから離れる!」ではダメである。
そういう動揺心境は必ず犬に伝わるから、
そうすると犬も意識してしまうから、
飼主は胆を据えて「自然体」で対応することだ。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:11:27 ≫