<<熊の力の一端>>
 
この映像の熊は「アメリカ黒熊」である。
口吻が薄茶色だから、日本黒熊と違うことが分かる。
≪≪もちろん黒熊は羆よりも小柄である≫≫
「雄か雌か?」「成熊か未成熊か?」は不明だ。
どういう環境下で生活しているのか?
運動充分な健全体力の個体なのか?
あるいは「牙や爪」を除去されてはいないか?
そしてこの個体のコンディションはどうなのか?
そういう説明は無いので、
この個体の熊としての実力は不明である。
性別・年齢・環境・健康状態などで、
熊の実力は何倍も違ってくるのである。
一方の男性は、プロレスラーの藤原組長である。
百戦錬磨のベテラン・プロレスラーである。
昔は確か「ピットブル」を愛育していたはずである。
大袈裟な自己顕示の無い、実直な人のように感じる。
もちろん藤原組長は体調を整えていたはずである。
格闘家としての面目が懸っているのだから当然だろう。
このテレビ企画は「熊との対決」らしいが、
しかし熊には「闘う意志」など微塵も無い!!
ただただ「困ったな!!どうしたらいいのか!!」である。
「なにがなんだか、さっぱり分からない!!」である。
つまり混乱と葛藤の中で苦悩しているだけである。
しかしこの映像でも、熊の力の一端の一端は伝わるはずだ。
プロレスラーの藤原組長が極度に緊張しているのである。
緊張と言うよりも、半ば固まっている感じだ。
もうその時点で、熊の力の一端が分かるのである。
リアルで垣根無しで素手丸腰で熊と向かい合えば、
熊に潜む潜在力を、まさしくリアルに実感するのである。
それをリアルに実感すれば、どういうことになるか??
そういう様子が、この映像でも分かるはずである。
「牙とか爪とか」の話の以前に、
熊の「動き」自体が、その「突撃力」自体が、
すでにそれ自体が人間にとっては驚異なのである。
それは人間レベルとは根本的に「別次元」なのである。
幼獣時から生死の境界を渾身の力で生きる野生たち。
そういう日常を果てしなく連綿と続けてきた苦闘の歴史。
それを考えれば人間とは次元が違うことを納得できるはずだ。
私も森で「2m」の至近距離で素手丸腰で熊と向かい合った。
野生の熊は、つまり「力の塊り!」そのものだった。
そして「野性の威圧感」は、とにかく圧倒的だった。
野生の猪とは触れ合ったが、やはり圧倒的力量だった。
全くの素手丸腰だと、ありありと実感できるのである。
 
 
しかし熊は森で自分の力を大袈裟に誇示したりはしない。
あれほどの力の持主なのに、慎ましく静かに暮らしている。
もし人間があれだけの力を得たとしたなら、
おそらく今よりさらに横暴乱暴になるだろう。
そういうことを考えると、熊は見事に「自制」している。
熊に限らず、野生たちは皆、自制心に満ちている。
そうでなければ、野生世界は滅茶苦茶になってしまう。
しかし中には「人間の方が強い!」などと勘違いする人もいる。
ネットでも、そういう「勘違い主張」を見かけることがある。
そういう人は、どうしても「野生力を認めたくない」のだろう。
どうしても「力でも人間の方が上」だと信じたいのだろう。
野生たちは普段は人人から「怖い!」と忌み嫌われ、
しかし今度は「実は人間の方が強い!」などと言われるのだ。
人間は結局「俺様が一番!」でなければ気が済まないのだろう。
どこに野生への畏敬が、大自然への畏敬が、あるのだろう。
時には「熊と遭遇して勝った」などという武勇伝があるが、
熊の性別年齢健康状態で、何倍も力は違ってくるのだ。
そもそも、それが幼い子熊や衰弱状態の熊でない限り、
銃なし人間が勝つなど、絶対に有り得ないことなのだ。
そういう誇張を吹聴することは野生への冒涜である。
「野生の美しい力」への敬意が無いから、
だから人間は卑怯で残酷な「くくり罠」を平気で使う。
だから平気で狭い狭い捕獲檻に何日も放置できる。
もしも敬意があれば、そんな手段は絶対に選べないはずだ。
はるかに真摯に真剣に最善対応を考えていくはずである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:11:06 ≫