<<動物虐待娯楽>>
おそらく世界中で、
動物虐待娯楽というものがあっただろう。
ほんの200年前まで英国では、
実際に「牛虐め・熊虐め」という娯楽ショーが興行されていた。
それは普通に、庶民に大人気の娯楽ショーだったのだ。
牛や熊は、綱や鎖で繋がれたままの状態で、
強力犬たちに好き放題に咬まれ続けるのである。
牛や熊が苦しめば苦しむほど、観客は興奮するのである。
それがどれほど残酷な光景だったかは見ないでも分かる。
牛や熊はすぐには死ねない。長時間に亘り苦しみ続ける。
それが強力犬であろうと、犬の咬撃では、すぐには死ねないのだ。
しかしそこが、観客達の求める娯楽のハイライトなのだ。
動物の苦しむ姿を見ることが観客達の目的だったのだ。
そういう残酷虐待ショーを、大衆は楽しみにしていたのだ。
人間には、そういうことに悦楽する傾向が潜んでいるのか??
人間には、そういう性質が隠されているというのか??
※その犬達が残忍だと思われるかも知れないが、
その犬達もまた人間から好き放題に操られてきたのだ。
その犬達もまた、牛や熊と同様に「物扱い」されてきたのだ。
残酷極まる淘汰方法で、過酷極まる繁殖が続けられた。
その残酷過酷さは、犬好きの人には信じ難いことだろう。
そして犬達は人間から狂わされてきたのだ。
常軌を逸した攻撃性を要求され続けたのだ。
際限なく攻撃する攻撃性を埋め込まれたのだ。
犬達は好き放題に悪魔人間に利用されたのである。
※英国ではその後に、動物虐待興行は禁止された。
そして今は英国は、動物愛護熱心国である。
動物虐待興行とは形が異なるが、
たとえば「猪犬訓練場」なるものがある。
何頭もの犬で、猪を攻撃させるものである。
どうやらいろんな国で行なわれているようだ。
検索すれば、そういうものが際限なく出てくる。
囲いの中で、逃げ場を失った猪が、
強力犬達に好き放題に咬まれ続けるのである。
延延と長時間に亘り、犬達に咬まれ続けるのだ。
その状況は様様なようだが、
時には足を縛られた子猪が、完全に「咬ませ道具」として、
犬達から死ぬまで咬まれ続けるケースもあるようだ。
猪の大きさも子猪や半子猪など様様なようだが、
大きな成猪は「牙を落とされている」ようである。
要するに猪は反撃さえも許されないようである。
つまり、ただ延延と咬まれ続けるのである。
そして生きながら引き裂かれていくのである。
もちろん猪は地獄の激痛に泣く。
忍耐強い猪が悲鳴を上げるのだから、
つまりそれは地獄の激痛なのである。
そういう施設は「訓練場」と呼称されてはいるが、
実のところは強力犬飼主達の「娯楽施設」だろう。
「うちの犬は、どんだけ強いんだ?」
「うちの犬が猪を咬む姿を見たい!」
「うちの犬に強くなってもらいたい!」
「うちの犬の本能を引き出してあげたい!」
「犬達が猪を殺していく光景を見たい!」
「猪が無残に殺されていく光景を見たい!」
おそらくそういう気持が本音ではないだろうか。
「その犬種の本能を・・」などと講釈しているが、
そもそもは個人またはグループが、
その犬種を「発案」したのが始まりである。
元元はほとんど個人的な主観で発案されたのだ。
それを「本能・・」などと言うこと自体が誤解釈である。
それにしても囲いの中で飼われた猪を、
野生の健全な体力を失った飼猪を、
しかも子猪や半子猪や牙落としの猪を、
何頭もの犬で追い込ませ咬ませ続けることに、
いったい何の意義があるというのか??
「怖れずに咬むことに慣れさせる」ということか??
そんなに御膳立てしなければ闘えない犬なのか??
それはただの「集団リンチ」である!!
「集団リンチ」のどこに美学があるのか??
それはリンチでは無いと言うのなら、堂堂と五分の条件で、
野生の健康な雄の成猪と、タイマンで闘わせるべきだろう。
「強い犬」が自慢ならば、それくらいは覚悟の上だろう。
私は「野生の猪」を知っている。
以前の記事にも書いたが、
私と犬達は野生の猪達と共存している。
そして私は野生の猪の「力」を知っている。
「圧倒的な力の塊り」であることを知っている。
どんな力自慢の強力犬であろうと、
野生の健康な雄の猪の前では子供同然である。
犬など簡単に弾き飛ばされるのだ。それが「野生」なのだ。
その美しい力の猪が、無残な悪条件でリンチされていく。
なんという卑怯だろうか!!どこに美学があるというのか!!
「集団リンチ虐待ショー」を眺めて楽しむ感性の人間に、
「闘いの美学」など全く理解できないだろう。
※社会は犬に対して、
「どこでも誰にでも穏やかで友好的」であることを求める。
誰もが口を揃えて同様のことを犬に求めている。
ところが世間には、それとは真逆を要求する人達も多い。
そういう人達は犬に真逆の要求をしながら、
それでいて「社会性も両立させている!」と自慢する。
それが本気の自慢であれば、その人は気楽である。
その人は相反する矛盾の両面を同時に犬に求めているのだ。
その犬の精神は支離滅裂になっても不思議ではないのだ。
だいいち、そんな都合のいい虫のいい話など無い。
自分がそれを要求されてみるがいい。
その人の精神は、たちまち支離滅裂になるだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:11:03 ≫