<<狩りガール?>>
 
最近、「狩りガール」という言葉を目にする。
検索してみたら、いろいろと出てくる。
NHKでも取材放送されたようである。
 
いくつかのサイトを見たが、
何を言いたいのか、さっぱり分からない。
そこに真摯な感謝と祈りを微塵も感じない。
命に対するリスペクトを微塵も感じない。
そこから感じるのは、
「狩りは楽しい!美味しい!」それだけである。
もっともらしい講釈を垂れているが、
そこには真摯な感謝と祈りを微塵も感じない。
命に対するリスペクトを微塵も感じない。
 
子供達を呼んで「解体」を見学させ、
そして宴食会となり、皆で賑やかに満悦する。
それが「命の教育」だと言うのだが、
それのどこが「命の教育」なのか??
「人間は異種の命を戴いて生きています!」
「だから感謝して食べましょう!」
と言うのだが、どこに「感謝」があるのか??
もし真に感謝があるのなら、
そんな未熟極まる技量で狩猟には行かないはずだ。
未熟極まる技量で狩猟すれば、
獲物を必要以上に長く苦しめることになるからだ。
それがどれほどの痛みと苦しみか知っているのか??
知っていて平気だとしたら、話はさらに大問題である。
もし尊い命を戴くと言うのなら、
そこには礼儀と感謝と祈りがあるはずだ。
そうだとしたら、せめて苦しませずに、
一撃で逝かせてあげるべきだろう。
それがせめてもの人情である。
そういう配慮が、そこにあるのか??
その配慮のためには、
全身全霊で技量練成に打ち込むべきだろう。
それも半年や一年のレベルでは話にならない。
何年も己の全てを懸けて渾身の努力で練成すべきだろう。
それこそ睡眠時間を削るような求道生活に入るべきだろう。
そういうレベルの努力を、実践しているのだろうか??
そういうことに、そういう配慮に、人人は無関心である。
ただ口で「感謝!」と飾り立てるばかりである。
 
人人は「命の教育」と言うが、
もし命の教育と言うならば、
山獣たちの心境と全身全霊を、
山獣たちの命懸けの家族愛を、
山獣たちの渾身の命のドラマを、
そういう最も重大なことを子供達に教えるべきだ。
子供達は、そういう知られざる真相に感動するだろう。
大人が誰も教えてくれない真相に感動するだろう。
その感動は子供達の心深くに刻み込まれる。
子供達は、その感動で素晴らしい大人に成長する。
そして世の中は確実に変わっていくだろう。
だが誰もそういう真相を教えない。
教えると不都合な事態になるというのか??
それとも大人も、そういう真相を知らないというのか??
知らなければ、教えることもできないだろう。
人人が「命の教育」と喧伝していることは結局は、
「異種の命に対して非情になれ!」というものだろう。
「気取るんじゃねえ!平気になれよ!」というものだろう。
だがそれは旧来の人間思考そのものではないか??
これまでの長い長い人類の思考そのものではないか??
その思考によって地球はどうなった??
どうなったかは、考えなくとも分かるはずだ。
人人は「人間の原点回帰!」を言いたいのだろうが、
原点回帰ということは、「地球を壊す」ということだ。
そこら辺を人人は全く勘違いしているのだ。
そうではなくて「進化」なのだ!!
人類は新たに進化しなくてはならないのだ!!
人間の強烈な強欲が地球を壊していくのだ!!
まだそれに気づかない人人が多いとは!!
 
あるいは個人が自宅で子豚達を飼い、
育てた挙句に食肉センターへと送り、
その肉を友人達と宴会で楽しく賑やかに食うという、
そういう手記の本も出版されているようだ。
インテリ文化人達からは大変に好評の様子である。
著者は文化人達から「もてはやされている」ようである。
「そうだよね!人間ってそうでなくちゃ!」と担がれている。
その著者は「人と動物の共生」を謳う団体からも、
過去に招待されて講演まで披露したようだ。
著者は「命を食べるって、こういうことよ!!」と自慢している。
まるで武勇伝の如くに、自慢口調で顛末を披露している。
この著者と狩りガール達は気配が似ている。
彼らの奥深くには独特の「欲望」が渦巻いている。
その独特の欲望を、彼らは講釈でカモフラージュしている。
その覆い隠された欲望に人人は全く気づかないようだ。
あるいは同調する人人は同様の欲望を秘めているのだろう。
同様の欲望を秘めていれば当然ながら同調するだろう。
そういう人人が多いということだろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:11:03 ≫