<<犬の教導//誉・訓>>
ここで言う「教導」とは、
反射反復練習で何かを憶え込ませる「芸当」のことでは無い。
そういう領域ではなくて精神領域での教導のことである。
共生に於ける精神的成長を導くための教導である。
犬同士の犬家族では、それは行なわれているのである。
母犬の教導は絶妙に見事であり、
そして年長犬達の教導もまた素晴らしい。
普段は優しく!普段は朗らかに!普段は大目に大らかに!
だが時に厳しく!時に烈しく!時に威圧で圧倒する!
そうして子犬達は若犬達は、群れの掟を覚えていく。
群れの場合には、時には「生死」が懸かるからである。
掟を無視した未熟者は無礼者として審判されるからだ。
だから子犬時代若犬時代に、皆から教導されるのだ。
それは、その犬を真に想うからこその教導なのだ。
だからこそ時には厳しくなる。そういうことである。
ところでだいぶ以前に、
「どんな時も絶対に叱るな!」という教育が紹介された。
まったく「極端!」な発想の教育である。
なぜそういう「極端!」な発想になってしまうのか。
そういう人は、自分の本心を偽って飾り立てている。
そしてそういう人は、おそらく「真の誉め方」を知らないだろう。
自分の本心を偽る人には、真の誉め方はできないのである。
そして真の誉め方ができる人は、真の叱り方ができるのである。
もちろん、叱らないで済むならば、叱らない方がいい!!
そんなことは当たり前の話である!!当然だ!!
だが犬の個性は百犬百色である。それぞれに違うのだ。
中には、「やむなく」叱らなくてはならない子もいるのだ。
時には、「やむなく」叱らなくてはならない場合も出てくるのだ。
その「叱らなくてはならない」の判断が至難なのだが!!
その「判断」が難しいから、叱ることは難しいのだ!!
叱ることは難しいことだから、
だから命懸けで叱らなくてはならない。
「そこに己の命を懸けて叱る」ということだ!!
「叱ることを誤れば己が死ぬ!」くらいの心構えということだ。
大袈裟に聞こえるかも知れないが、
「叱る」ということは、それほど至難なことなのだ!!
昔昔、まだ若かった頃は、叱り方を誤った。
まだ血気横溢していたので、判断を誤ったのだ。
すぐに誤ったことに気付くがもう遅い。あとの祭りだ。
何日も何日も、後悔で眠れないほどだった。
犬への申し訳なさで、胸が裂ける想いだった。
ほんとうに心から、ただただ申し訳なかった。
そうして私は、己を戒めるようになった。
どんな時でも、自分の後ろに自分が立つようにした。
自分の後ろに、もう一人の自分が立ち、自分を見るのだ。
そうすると、その叱り方がどうなのか、分かるのである。
だからいつも、もう一人の自分が、自分の後ろに立っている。
叱り方が下手な人がいる。
ネチネチ!!ギャーギャー!!延延ガンガン!!
犬達は、そういう叱り方に不審と不信を抱く。
それが「愛情」から出ていないことを一発で見抜く。
だからその叱り方は、犬の心に「訓」として入らない。
「訓」として入らずに、不審と不信だけが焼き付いていく。
つまり、まったくの逆効果なのである!!
それは飼主が怒りと憎悪を爆発させているだけなのだ。
「叱る」を口実に、怒りと憎悪を爆発させているのである。
犬から見れば、その飼主の顔は「悪魔」だろう。
そうではなくて、胆声力で「一喝!」するのだ。
己の心気を声にして、胆から発声するのだ。
そこに「怒」や「憎」は皆無だが、
その代わりに「真の威力!」があるのだ。
真の威力があれば、犬の心に「訓!」として入るのだ。
それは本当の意味の「喝!」になるのである。
もしも短気でエスカレートする傾向の人であれば、
大喝した後に、三分間、犬の前で直立したまま、
目を閉じて、静かに深く大きく深呼吸をするといい。
その「三分間深呼吸」で、気持は全く変わるはずだ。
心の荒波が鎮まり、冷静になれるということだ。
それでも変わらないとしたなら、
その人は「冷静になるつもりが無い!」ということだ。
その人は「怒と憎を爆発させたい欲望!」に支配されている。
それは「短気」の問題では無く、「欲望」の問題なのである。
そういう人は、絶対に動物を飼ってはならない。
犬は「叱られている」ことを、はっきりと理解する。
そして犬は謝る。犬は本心で謝る。そこに嘘は無い。
それこそ平身低頭の姿勢で、肩をすぼめて縮こまる。
あるいは犬は片手を挙げて、
「ごめんなさい・・ゆるしてください・・・」と心底詫びて哀願する。
その「どうかゆるしてください・・・」の片手は本心なのである。
≪≪犬は様様な場面で心境を「手」でも表現する≫≫
そういう心境の犬を、さらに追い込むことは絶対厳禁だ。
「さらに追い込む」ことが、どれほど非情非道か!!
それがどれほど非情非道であるかを知るべきである。
あるいはさらに追い込んだところで、
その犬に飼主の意向を理解させることなど無理なのだ。
それは無理であり、無意味であり、理不尽なのである。
ところが実際には、さらに追い込む人も多いのである。
そこに対話はゼロである。永遠に絆は不可能である。
「叱る」ということは、己が審判されているのである。
たとえ「やむなく叱らなくてはならない状況」だとしても、
己が審判されていることを肝に銘じるべきである。
それを常に肝に銘じていれば、叱り方も上手くなる。
肝に銘じるか銘じないかが、分かれ道なのである。
そして「誉めること」もまた、奥深いものである。
「真に誉める」ということは、実は奥深いのだ。
ほんとうに「心の底から」誉めることができるか??
心の底から本心で誉めることができたなら、
それは犬の心に深く深く刻まれる。
犬はそれを、絶対に忘れない。
真に誉められた時、犬はそれを絶対に忘れない。
犬という命は、そういう命なのである。
真の誉め方と真の叱り方を知るならば、
犬の教導は成されたも同然である。
それくらいに、それらは根幹なのである。
※犬が充分に成犬になれば、
ほとんど叱る場面など無くなる。
叱る場面は滅多なことでは起きない。
それは「叱る」では無くて、
「忠告・訓告・警告」の領域なのである。
子犬若犬時代に「真の叱り方」で教導された犬は、
成犬になってからは「会話レベル」で物事を理解する。
ただし世間の飼主の風潮を見ていると、
叱る必要の無い状況でも叱る人が多い!!
叱るべきでは無いことを叱る人が多い!!
これは大きな問題である。
犬はやがて混乱し、心を閉ざしていく。
己の心の表現を封印するようになる。
なんという悲しみだろうか!!
だから「叱ること」は難しいのだ。
本来ならば「犬という命」を知らなければ、
犬を叱ることなどできないのである。
犬を教導するということは、命懸けである。
当たり前の話だ!!尊い命と向き合うのだから!!
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:10:28 ≫